栗原親子。世間的には、息子の栗原 類さんのご活躍がテレビや舞台、ファッションショーなどを通じて広く知られていますが、お母様の栗原 泉さんは、先日発売になった「100人が語るフジロック伝説」にも登場されているように、フジロックを創生期から裏で支えてきた音楽業界で働くお一人です。
私がその存在を知ったのはこの世界で通訳としての仕事を始めた頃のこと。これまでお会いしたことはなく、話でしか知らない先輩でしたが、【こどもフジロック】がスタートした時から、いつかお話をお訊きしたいと思っていたのが栗原 泉さんでした。
そこで今回は、スタッフの一人として長年参加してきた母・泉さんと、その母に連れられて初年度から2歳でフジロックに参加した経験を持つ息子・類さんにもご登場いただき、フジロックにまつわるエピソードをお訊きするべく親子対談をしていただきました。

Interview:母・栗原泉 × 息子・栗原類

02-8 【こどもフジロック】栗原泉・類親子とフジロックの歩み

フジロックに初めて参加したのはいつですか?

栗原 類(以下、類):親子揃っての初めてのフジロックが1年目、97年のフジロック。実際に富士山の麓だっけ?

栗原 泉(以下、母):本来のフジロックフェスティバルという名前の由来になっている富士の裾野ね。

当時、類さんは何歳でしたか?

類:私、94年生まれだから2歳半とか。でもベビーカーで参戦。

母:まあ、歩けませんからね、あの距離だと。取材が入っていたのでのんびり行ける状況ではなくて。駐車場に入れない車がずらっと並んで順番待ちをしてて、まともに行こうとしたら今日終わっちゃうんじゃないかっていう状況だったので、運転していた友達に付き合って待つこともできず、車からベビーカーを降ろして、歩きで山を登って。途中のポイント、ポイントにいた警備のバイトくんに「仕事で来ているので上に連絡してください」と言っても、子どもを連れた一般客がごねてるとしか思われず、連絡してもらえなくて。

誰の取材だったんですか?

母:予定されていたのはThe Prodigyだったかなあ。Atari Teenage Riotと、Aphex Twinも入ってたかなあ。でも結局はとんでしまって。Atariはできたんですけどね。

あの状況下で取材をやっていたんですか?

母:はい。Atariはできて、The Prodigyが翌日できないってことになって、代わりにBeckを担当しました。

類:あ、そうだったんだ。

それは何の取材でした?

母:Atariは「MUSIC LIFE」。BECKは「CROSSBEAT」でした。ライター業を始めたのは99年くらいで、当時は通訳の仕事がほぼ100%でした。

類さん、当時の記憶はありますか?

母:2歳だからね、ベビーカーからも降りてないし(笑)。

類:記憶は一切ございません(笑)。大人になってからよく聞く話としては「よくベビーカーで連れてきたよね」とか「2歳の子をベビーカーで参戦させようとは思えない」って母親が言われてたって(笑)。そもそも、なんで僕を連れて行ったんだっけ?

母:海外のフェスだと普通に子ども連れで行くから。

オーディエンスだけでなく、スタッフ側もということですよね?

母:そうですね。

でも、20年以上前の日本で、しかも嵐の山の中でその姿は「すごいことしてる人」だったでしょうね。

母:ベビーカーはとにかく見かけなかったですし。あんまり子どもも見なかったけれど、小学生くらいのお子さん何人かは見た記憶があって。小学生まで無料だったからだから。

類:そうだったの? 

母:そうなのよ。だから連れて来てた人もいましたけど、あの天気になるとわかっていたら、私も連れて行かなかった。

類:2日目キャンセルになったんだっけ? 

母:そう、そう。フェスに日本人が慣れてなかったっていうのがあったよね。日本人にとってのフェス初体験だったから、みんなよく分かってなくて、とんでもないことになっちゃった、みたいな。

類:なるほど。

母:もともとグラストンバリーをお手本に、自然の中で音楽を楽しむっていうコンセプトで始まったもので、日本だったら富士山がシンボリックだから富士山の近くでって。だけど、当時の日本人はついて行けなかったっていう部分があった。苗場くらいの便利さが丁度いい気がしますよね。

2年目以降は?

母:2年目、3年目は行ってないんですよ。やはり、1年目でかなりあの−、懲りたので。天候の問題もあったんですけど、プレスルームもそこに入りきらないプレスの人数がいて、人が密集していて座る場所も立つ場所もないくらいだったから。でも2000年前後になると取材の本数が増えたんですよね。フジロック自体の世界的知名度も上がって出てくれるアーティストも増えたせいか、現地で対応する取材の本数が増えたのと、裏で働く人たちの動きもわりと安定して連携が取れるようにもなったし。

ということは、類さんがフジに戻ってきたのは?

類:小学校? 

母:小学校入る年くらいかな。4歳、5歳になるとベビーカーっていうわけにはいかないじゃないですか。歩かせるにしても「こんな距離歩けない」とごねられても困るので、まずは子どもを連れていく場合のチェックポイントを確認してからじゃないと次は連れて行けないと思いました。だから2000年だったと思いますけど、そのときは私一人で行って。プレスエリアがこっちで、入場ゲートがこっちでとかを全部確認して、その次の年の2001か、2001かのどっちかくらい。

類:2003はMUSE来てたっけ? 知ってるバンドがいて見に行ったって気がしたけど。

母:MUSEとは知り合いじゃなかったでしょ。

類:そのときは知り合いじゃなかったけど、前から家とかで聴いていたバンドで。2002はMUSEもThe Prodigyも出てたし、マヌ・チャオ(Manu Chao Radio Bemba Sound System)とかも出てたよね。

母:2002は行ってると思う。だけど、当時MUSEは私が一人で見に行って、あなたは見てない。

類:じゃあ、マヌ・チャオかな? 

母:いや、マヌ・チャオもあたしは連れて行ってません。

類:じゃあ俺、虫取りやってたのかな? 

03-8 【こどもフジロック】栗原泉・類親子とフジロックの歩み