<フジロック>が2005年に立ち上げたフジロック・コレクション(通称:フジコレ)は、「音楽や自然を介して、お互いが人間として触れ合い、助け合い、愛し合える」という<フジロック>ならではの魅力を、ファッションというプロダクトを通して表現していくプロジェクト。そして今年のフジコレ’19のデザイナーとして参加するのが、2006年にWhite Mountaineering(ホワイトマウンテニアリング)をスタートしたデザイナーの相澤陽介さんだ。相澤さんはなんと第1回の<フジロック>を体験し、以後もこのフェスを見続けている生粋の<フジロック>ラヴァー。今回はこれまでの<フジロック>の思い出を振り返りながら、フジコレに参加する今の気持ちをたっぷり聞いた。

Interview:相澤陽介(White Mountaineering)

「会社を辞めたきっかけの一つにフジロックがあるかもしれない」

――早速ですが<フジロック>に初めて行ったのはいつですか?

1回目ですね、僕はハタチでした。まず浪人生で立川の予備校に行っていたころにチラシを見たんですけど、そのメンツを見て「何だこれ!?」ってなって。<ロラパルーザ>とか海外のロック・フェスをビデオで見ていた世代なので、日本でこんなのがあるんだと思いました。そこから大学に入って、<フジロック>の前に<ナチュラルハイ>に行って。そうしたら<フジロック>のポスターを貼っている飲食のブースがあったので、働かせてくれとお願いしました。そのときは大学生で<フジロック>に行くお金も無かったので、「働くし、準備もします。ただ、レイジ(・アゲインスト・ザ・マシーン)だけは見させてほしい!」と。なので1回目は準備からずっといて、スマッシュの方たちが頑張っている姿も、終わったあとの状態も見ました。あとはありがたいことに、リー・スクラッチ・ペリーのリハとかも見ることができたんです。

――それは中で働いている人ならではの貴重な体験ですね。

そうですね。当日はビールを売っていたんですが、途中から大雨だったのでビールを買う人なんて誰もいなくなって。店の人に「もういいよ、ライブ観ておいで!」と言ってもらえて、イエモンぐらいからかな、観に行ったらもう大変なことになっていた。ただ、夜はデカいケータリングの車で寝られましたね。

――当時はどんなジャンルの音楽が好きだったのですか?

けっこう何でも好きで、バンドもやっていました。まあ<フジロック>は世代的にも出ているアーティストがドンピシャでしたよ。バンドは中学の後半から高校のときまでやっていて、ニルヴァーナとかストーン・ローゼズとかをやっていましたね。

――そういう世代ですね。1回目の<フジロック>はラインナップを見るだけでもすごいメンツで、同時に当日の盛り上がりの凄さも伝説のように語られています。

ライブで前に行く勇気は無かったですね。レイジのあとにレッチリも観たと思うのですが……記憶が。ただこのぐらいのタイミングで、ステージが強風でグラグラになっていて、中止になるかどうかみたいなアナウンスがあったような気がします。

――主催もアーティストも観客も、全てが初めて尽くしだった。

はい。ファッションに関しても、替えのスニーカーを持っていくという知識も無かったし、デイパック一つで行って、レインコートも持っていなかった。「夏だから……」と思うじゃないですか。結果、ビール飲みながらびしょびしょになって、靴もぐちゃぐちゃだった。

――“フェス・ファッション”なんて言葉が存在しない時代ですもんね。

そうですね。2回目の豊洲も行きました。僕の父親がコンサート関係の仕事をしているので、子どものころからいろいろ行っていたんですよ。子どものころに行ったラインナップがいま考えるとすごくて、マイケル(・ジャクソン)、U2、ティン・マシーン、(ローリング・)ストーンズ、M.C.ハマー、ジャネット(・ジャクソン)。あとフェスだと、<マウント・フジ・ジャズ・フェスティバル>に毎年行ってました。

――ものすごい音楽体験をしていた子どもだったんですね。

それもあって、行く前は<フジロック>も<マウント・フジ・ジャズ・フェスティバル>に近いフェスなのかなっていうイメージだったんです。もちろんジャズのフェスとは少し違うとは思っていましたが、<フジロック>は実際に行ってみると、あまりにも違ったので衝撃的でした。

――そこからも<フジロック>は定期的に行っていましたか?

そうですね、でも苗場の1回目は行けてなくて。僕は最初、コム・デ・ギャルソンに就職したのですが、夏休みが取れなくて4〜5年は行けていない期間がありました。ただ行った年はアーティストで覚えています。(歴代のポスターを見ながら)NUMBER GIRLはいつでしたっけ?

――2001年ですか?

その年は無理やり日帰りで行ったんですよね、オアシスが見たくて。あと、そのあとのことですが、会社を辞めたきっかけの一つにフジロックがあるかもしれません。仕事は仕事で全力でやっていたし、誇りを持ってやっていましたが、フジロックの持つ自由さというか開放感みたいなものを感じてしまうと、あまりに両極な世界なのである程度働いたところでそっちの世界に行ってしまった感じですね。2005年くらいはよく仕事帰りにブラフマンのメンバーやローディーと飲んでいて、その年の<フジロック>はOAUとして初めて出るし、シガーロスとかメンツ的にすごくよくて仕事をしてる中でまた出会ってしまった感じでして、その年に会社を辞めました。先のことを考えずに辞めたので、その後は工事現場でコンクリートを削る仕事をしたり、運送会社で働いたりしながら翌年White Mountaineeringをスタートしました。

――相澤さんの経歴を見て、そんなことがあったとはイメージできないと思います。

White Mountaineeringを始めてからは、ほぼ毎年<フジロック>には行っていますね。いま振り返ると1回目の<フジロック>に行けたのはすごい縁だったと思いますし、僕の人生において特に2005年は、いろいろな意味で記憶に残っています。