毎回様々なゲストに登場してもらい、<フジロック・フェスティバル(以下、フジロック)>の魅力/思い出/体験談について語ってもらう「TALKING ABOUT FUJI ROCK」。今回は、今年メジャデビュー20周年を迎え<フジロック>には約4年ぶり7回目の出演となるクラムボンのミトさんの登場です。2003年の初出演から、バンドやソロとして数々のステージに立ってきたフジロック常連組のクラムボン。過去の出演の思い出から、<フジロック>と共に歩んできたクラムボンのバントとしてのあり方について、今年の<フジロック>への意気込みと楽しみなアーティストについてなどを語っていただきました。

Interview:ミト(clammbon)

「ライブのスタイルが変わったのは、ホワイト・ステージの出演があったから。」

clammbon-_mito_01 clammbonミトが語る、フジロックの影響とクラムボンのこれから#fujirock

――ミトさんが最初に<フジロック>に行ったのは、クラムボンとして出演があった年だったのですか。

富士山で開催された97年の雨だくの年です。あまりに雨がひどすぎて、車のなかでほぼほぼ音を聞いていましたね。

――行こうと思ったきっかけは何だったのですか。

山中湖の近くに、うちのおじさんが別荘みたいな家を持っていたんですね。そこで寝られるなと思って、だったら友だちと一緒に行けるなって軽い気持ちで行ったんですよ。

――海外のミュージシャンが、あれだけ一堂に集まるイベントが当時はそれほどなかったですから。

あまり事情をわかっていなくて情報もなくて。ぶっちゃけTシャツと短パンというスタイルでした。<フジロック>の前年には、同じ富士の裾野で<RAINBOW2000>が開催されていましたけど、<RAINBOW>は遊園地が会場でしたからね。いわゆるキャンプをするようなところ、野ざらしのところでのイベントってなかったので。ここまで過酷なのって思いましたよ(笑)。とにかく駐車場に人が固まっていた光景が記憶に残っていて。みんながコンビニ袋を靴に巻いて。言葉が悪いですけど、難民キャンプってこういうものなのかなって思いましたから。釣りに行くときのようなレベルの着の身でライブを観るなんていうことは、まったく発想になかったですね。レンタカーを借りて行ったんですけど、車内を清掃して戻さないと追加料金を取られるんじゃないかくらいのレベルの泥だらけでした。翌年の豊洲にも行ったんですよ。豊洲は東京で近いからと思っていたんですけど……。

――クラムボンとして最初に出演なさったのは何年だったのですか。

2003年ですね。苗場にはニュー・オーダー(New Order)が出た年だから2001年に行っています。

――ステージから見た風景はどんな記憶となって残っていますか。

あんなに広い野外のステージは初めてだったんですけど、タイミングが良かったのかすごく人がいてくれたんです。そんな大層なバンドではないんです!っていう気持ちがすごくあったかな。こんなにいっぱいの人たちに見せられるほどの楽曲というかパフォーマンスというか、そんなものを持ち合わせているバンドではないと思っていたんです。

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――OOIOO、クラムボン、ROVOとラインナップされたその日のホワイト・ステージの並びは、パーティー仕様に考えたのかなって思ってしまいますけど。

しっかりそろっていますよね。今でもいろんなとことで一緒にやっている音楽仲間ですから。その縁って不思議なものだなあとしか思えないですね。

――当時はクジャムボンとしても活動なさっていたのですか。

やっていましたね。ジャムセッションでのツアーもしていました。クジャムボンはある部分ではパーティー的というかフェス的というか。自分たちがクラムボンでやっている、いわゆるポップソング的なものとフェス的なものって乖離していると思っていたんですよ。そこまで混じっていない気がしていたんですね。セッション感みたいなもの、ジャムバンド的なテクスチャーを自分たちの楽曲のなかにちょこちょこ入れてはいたんですけど、果たしてそれが効果を示しているのかがわからなくて。ライブバンドとしてのスキルがなかったので、作用しているのかどうか判断できなかったんです。ただホワイト・ステージではレスポンスがダイレクトに返ってきたんです。潜在的にも視覚的にも、こういうことをすれば反応がちゃんと返ってくるんだみたいなことを教えてもらえた気がします。私たちのライブのスタイルが変わったのは、たぶんそこからですね。

――確かにライブハウスを中心に活動していたバンドにとって、初めてのホワイトは大きなステージですよね。

あまりにも大きかったですよ(笑)。自分たちはポップバンドとしてやっているという気持ちだったんですね。当時の<フジロック>のいわゆるロックというカテゴリーのところに自分たちが入って行っていいんだろうか?みたいな、エクスキューズがすごくあったんです。今でこそポップ・バンドとしてフェスに出ることは、違和感があまりなくなってきましたけど。逆に考えると、ロック色が強いところに自分たちのようなバンドが入ると、風通しが良くなるというか気が落ち着けるような場所になるというか。そのスポットに、運良く私たちは入り込めて行けたんじゃないかなって。いい意味でのスイートスポットを見つけられたなって思いが当時はありましたね。

――原田郁子さんの歌声だったり、3人のサウンドがそう感じさせてくれる大きな要因だったんでしょうね。

本当にそれが成立しているのかどうかもわからないような、俯瞰では見えない感じで音楽を作っていたので。ただ自分たちのやり方は普通ではないなと思っていましたね。いろんなものを凸凹のままクラムボンのなかに無理やり押し込めるみたいな。

――自分たちの音や方向性が定まってきたのは、もう少し後になってからなのですか。

「あ、これくらいまではみんなに受け入れてもらえそう」っていうカードと、「自分たちがこれくらい持っているのかな」っていう器みたいなものが、なんとなくわかったのが2010年くらいになってからですね。凸凹した自分たちさえコントロールできないエネルギーっていうのは、確かに初期のものには内包されています。自分たちの頭のなかで鳴っていた音楽が、ようやっと形になっていくまではそこそこ時間がかかっていたと思うし、そう思っているミュージシャンの方も多いと思いますよ。