毎回様々なゲストに登場してもらい、<フジロック・フェスティバル(以下、フジロック)>の魅力/思い出/体験談について語ってもらう「TALKING ABOUT FUJI ROCK」。今回は約6年ぶり2回目の出演となるサカナクションの登場です。日本のロック界を牽引し続ける彼らは、今年3月にはメジャーデビューから10年を経て初のベストアルバム『魚図鑑』をリリース。6年前、初出演でホワイトステージを超満員にし、記憶に残るパフォーマンスを見せた彼らが苗場に再び登場します。サカナクションのほとんどの作品を手掛ける山口一郎に、今回の<フジロック>出演への思いやフジロックファンに届けたいことを語っていただきました。
Interview:山口一郎
「<フジロック>のライブによってちょっと自信を持つことができたんです。」
——最初に<フジロック>を意識なさったのいつの頃だったのですか。
僕は北海道の札幌なんですけど、札幌には<ライジング・サン・ロックフェスティバル(以下、ライジングサン)>というフェスがあって、まだデビューする前には、<ライジングサン>で設営のアルバイトを毎年していたんです。設営の時にテストバンドというものがあるんです。お客さんが入る前に、音響をチェックすることを目的にアマチュアバンドをステージに上げて演奏させる。地元でいい演奏をしているバンドが呼ばれるんですね。一番いいとされるバンドが、サンステージという<ライジングサン>で最も大きなステージで演奏する。僕らも何度かテストバンドとして選ばれ、ようやくそのサンステージのテストバンドになることができて、サンステージに上がって歌ったんですよ。それまで経験したことがないものすごく大きなフロアを前に演奏していて、すごく感動して。ここにお客さんがビッシリ入っているなかで演奏していたら本当に気持ちいいんだろうなっていうことをスタッフの人たちと話していたら、<ライジングサン>は北海道の祭りとして最高だけれど、やっぱりフェスの最高峰として君臨しているのは<フジロック>であり、大きな目標としてはフジロックでしょ、って言われたんです。<フジロック>って名前は聞いたことがあったけど、どんなフェスなんだろうなあって漠然と思っていたんだけど、ひとつの、そして大きな目標として<フジロック>という名前が自分のなかにインプットされたんです。
——それがデビュー前のことですよね。
はい。その後東京に出てきて、ライブを充実させていくにあたって僕らのPAチームを形成したんですね。そのPAチームは「アコースティック」っていう会社なんですけど、そこが<フジロック>の音響にも携わっていて。そのチームは富士山麓で1996年に開催された<レインボー2000>というテクノパーティーを立ち上げからずっとやっていた人たちで、レイブパーティーやフェスの成り立ちみたいなものだったりとか、日本における音楽カルチャーの成り立ちをいっぱい教えてくれたんです。そこで<フジロック>の立ち位置というものが、日本の音楽シーンにものすごく影響を与えたっていうことを知ったんです。ブッキングも今のように日本のメジャーどころがポツポツと入るものではなくて、日本のミュージシャンにとってはものすごく大きな壁があったということも聞いて。
——メジャーの日本人ミュージシャンは、確かに多くなかったイメージがありますね。
お客さんのリテラシーもそうですし、求めていくものもすごく高いフェスなんだっていうことが自分のなかにあって。メジャーシーンに自分たちはいるけれど、いつかその立ち位置のまま<フジロック>というステージに立ちたいっていう思いを、メンバー全員が共通して持っていましたね。そして2012年にホワイトステージに立たせてもらった。僕らの出演が発表されたときに実はディスられた声もあったんですよ。「なんでサカナクションを出すの?」って。
——日本のメジャーのバンドを入れることに対して、ある種の拒否感が出てしまっていた時代だったのかもしれないですね。
僕らの前がカリブー(Caribou)で、後ろがジャスティス(Justice)。今、振り返ればものすごい流れですよね。踊ることを目的としたお客さんがパーっといて。僕らはフジロック用にセットリストを作って、シームレスに曲をつないで、他のフェスでやるようなセットリストではなくて、フジロック仕様にアップデートしてライブをしたんです。そしたら思いのほか反応が良くて、入場規制にもなった。フェスの後にも「サカナクションをなめていた」みたいな反応が多かった。<フジロック>のライブによってちょっと自信を持つことができたんです。アンダーグラウンドだったりマイノリティな音楽が好き、メジャーなものを受け入れたくない人たちにも、ちゃんとライブに向き合っていれば、オーバーグラウンドでやりながらも自分たちの音楽が伝えられる。マジョリティーとマイノリティの通訳みたいな存在のバンドでいられたらいいなっていうことを、そのときに強く思ったんですね。サカナクションのファンも、<フジロック>に初めて行くっていう人も多くて、それまでは環境も整っていて浴びる音楽しか味わったことのなかった子たちが、僕らが<フジロック>に出たことで洋楽に触れて、新しい体験をして、僕らから巣立っていくというか。なんかそういう役割でいるっていうこともすごく気持ちいいなあって思ったんです。
——オーバーグラウンドとアンダーグランドをつなぐ存在なのが、サカナクションの立ち位置のように感じていました。
80年代って、僕は80年生まれでリアルタイムではないんですけど、調べていくと音楽とファッションって密接につながっていた。セックス・ピストルズが好きな人は、セックス・ピストルズを好きだっていうことがわかるスタイルをしていたんです。
——確かに安全ピンを付けたり。
家に行ったら、どんな音楽が好きかっていうのが一目瞭然で。
——パンク以前ではモッズもあったし。
90年代まではそれがギリギリ残っていて、突然2000年代からファッションから音楽が想像できなくなった。音楽と他のカルチャーが結びつかない時代になってしまったんですね。日本でもロックフェスが増えてきて、日本の若者たちの音楽の楽しみ方っていうのが、インターネットというものの存在で変わってきた。僕らの時代は音楽を探す遊びで、美しくて難しいものを理解することがひとつの快感だったのが、そうじゃなくなった時代になったと思っていて。日本だけではないんでしょうけど、音楽の立ち位置そのものが変化したのかもしれないですね。僕らはふたつの音楽の時代をまたいできたバンドなので、つなぐ役割があるんじゃないかなって気がしているんです。<フジロック>はまさにその象徴というか、<フジロック>で通用しなかったら、<フジロック>で認めてもらえなかったら、いくらメジャーシーンで続けていても、Mステ(ミュージックステーション)などのテレビに出ていても、バンドとしては意味がないなと思える。<フジロック>はそんな存在なんですね。
——サカナクションとしてのバンドのスタンスがその言葉から見えてきます。
環境が整っている都市型のフェスに出ている日本のメジャーのミュージシャンにとって、<フジロック>に出ることは怖いことだと思う。逆にそういうフェスに対してアプローチしていないバンドにとっては、<フジロック>のステージが楽しみであり違う怖さがあるんだと思う。
——何年か前に<ロックインジャパン>と<ソニックマニア>に続けて出演していたことがあって、一週間しか時間がないのにセットリストをまったく変えていました。フェスによってセットリストを変えることが、ライブという現場に臨むスタンスとして、当然のことではあるんだけど、なかなか日本のバンドではやっていないことだなって思ったんです。
<ロックインジャパン>は、変な言い方かもしれないですけど、お寺の池にいる鯉のようなもので、パンパンと手を叩いたらパッと集まってきて、エサをまいたら食べてくれる。エサを求めている状態なんですね。だけど<ソニックマニア>とか<タイコクラブ>とか、<ライジングサン>もその風潮があるけど、構えているというか、どう遊ばせてくれるの、どう楽しませてくれるのっていうお客さんのスタンスが、当時ほどではないけど今も残っていると思います。古き良き音楽の楽しみ方をしている人たちがいるフェスなんじゃないかなって気がしています。
——フェスに合わせてセットリストを作る難しさはあるのですか。
<フジロック>のセットリストは、いわばコース料理みたいなものですかね。前菜があってスープがあって、メインがあって、デザートがある。ダイナミクスというかストーリーみたいなものがないとちゃんと満足してもらえないフェス。そうじゃなくて、ラーメンをドンと出して、餃子をドンと出して、そういう楽しみ方をしている人が多いフェスとは違ってくるし、それに合わせてセットリストを変える。フェスでのセットリストを考えるときに、その合間に難しいものをあえて挟むとかもしています。そういう遊びをすることもあるけど、基本的には対応を変えるっていうことをしていますね。
——それが聞いている人間としては、その場所とリンクする発見もあります。セットリストを変えることは、もちろんスタッフの方々もそれだけ苦労が多くなるんでしょうけど。
長くチームとしてやってきていることによる経験値もあると思います。僕らのチームって、エイフェックスツイン(AphexTwin)の照明をずっとやっている人だったり、セカンド・サマー・オブ・ラブを体験している人たちだから、遊び方っていうものを知っているんですよ。ライフワークとしてはそういう仕事をするけれど、ライスワークとして日本のロックバンドの照明をやったりPAをやったりしている。僕も、もともと札幌のプレシャスホールっていうクラブで育って、THA BLUE HERBのBOSSさんにいろんなことを教わってきて、だけど自分はバンドをやっていた。ライブハウスでどう自分の音を表現するのかっていうこともやって、ふたつのカルチャーを行ったり来たりしてまたいでいたんです。東京という街はもっとアンダーグラウンドに特化したすごく刺激的な街だと思っていたんだけど、来てみたらけっこうミーハーなところも多いんですよね。
——東京はいろんなところから集まってくることで成り立っていますから。
東京ローカルというものはすでに存在していなく、ローカルの集合体が東京なんだなっていうことがわかって。だけど東京ローカルで遊んできた人たちのライスワークとして、メジャーフィールドでやっていることの歯がゆさみたいなことも感じたんです。だから僕らがアンダーグラウンドのおもしろさをオーバーグラウンドに伝えたいんだっていう姿勢に対して、チームもすごく協力的でいてくれています。照明を全部消してレーザーだけにしようよとか、PAもウーファーを入れちゃおうとか。低音でしっかりグルーブを作るサウンドにしようよとか。チームのみんなが協力的なんです。