あの日の夜は、ひたすら毛布にくるまって寒さをこらえていた。

97年の天神山スキー場。第一回の<フジロック>に、僕は一人の参加者として居た。当時はまだ大学生だった。読者だった雑誌『ロッキング・オン』の広告で日本初の大型野外フェスティバルの開催を知って、早速チケットを購入した。友人たち数人と連れ立って車を走らせた。

台風の直撃に見舞われたその日の様子のことは、すでに様々なメディアでドキュメントされている。語り草になっている。それでも、この記事では、当時の参加者の立場から、そして20年が経った今の音楽ジャーナリストとしての視点から「1997年に何があったのか」を振り返っていきたい。

前回のコラムに書いたように、今はすっかり日本にフェス文化が根付いた時代だ。<フジロック>は自然の中で音楽を楽しむ「ライフスタイル」の象徴になった。そういう2016年の時点から振り返ると、僕をふくむ当時のオーディエンスは無知だった。フェスという場をどこかでナメていたのかもしれない。

河口湖駅から行列に並びシャトルバスで会場へ。一発目のサザン・カルチャー・オン・ザ・スキッズの登場の頃は、まだまだみんな元気だった。それでも、ザ・ハイロウズからフー・ファイターズへと続く頃には、かなり雨が強さを増していた。コンビニで買ったレインコートは、とっくに使い物にならなくなっていた。

全身がぐっしょりと濡れ、スニーカーは泥に浸かって、重くなっていた。雨と寒さが容赦なく体力を奪う。あたりには上半身裸で歩いている若い男性をちらほらと見かける。「何をやっているんだろう?」と思ったけれど、真似してみたら、濡れたTシャツを着ているより少しマシな気がする。なかばヤケクソでもあった。

その時に観たレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンのステージは今でも鮮烈に印象に残っている。トム・モレロのギター、圧倒的なアンサンブルは、まるで雷に打たれるような感触だった。前方ではモッシュが巻き起こる。沢山の人たちが身体をぶつけあう。その上に雲のようなものが浮かんでいる。オーディエンスの熱気が水蒸気となって立ち上っていたのだった。

その後、セカンド・ステージの電気グルーヴ、エイフェックス・ツインを経て、ヘッドライナーのレッド・ホット・チリ・ペッパーズへ。しかし、その頃には、すでにステージを楽しむ余裕はほとんど無くなっていた。雨の向こうに4人の姿が見える。強風でステージの天井が揺れていた。

結局ライブは途中で終了。その後は立ち往生するシャトルバスに乗るのを早々に諦め、河口湖駅まで歩いて帰った。途中の国道で親切な地元の人が車に載せてくれた。あまりに疲労困憊だったので全員一致で2日目は諦めようということになり、中止の報は後で知った。

以上が、僕自身の体験。

あの時の混乱とヤケクソな熱狂は覚えているけれど、でも、それを美化するようなつもりは全然ない。今の方が断然いい。前回にも書いたことだけれど、フジロックが一回限りの「伝説」にならなくて本当によかったと思っている。そこから20年続いてきたことで、見えてきたことが沢山ある。

その一つは、1997年時点であのラインナップを集められたのは、やはり本当に奇跡的だった、ということ。

レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、グリーン・デイ、ベック、プロディジー、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン、フー・ファイターズ、ウィーザー……。2日間のラインナップには、海外でもメインを張れるような大物バンドが並ぶ。そして日本からはザ・イエロー・モンキーやハイロウズなどが出演して存在感を見せる。一方、セカンド・ステージは、エイフェックス・ツイン、マッシヴ・アタック、電気グルーヴ、リー・スクラッチ・ペリーやスクエアプッシャーなど、テクノやダブを中心とした陣営だ。

当時の印象でも相当に豪華な顔ぶれだったが、今振り返ってみても、90年代を代表するアーティスト達だ。

そしてもう一つは、これらのアーティストの多くが、20年経った今もシーンの最前線に現役で立ち続けている、ということ。

1997年のレッド・ホット・チリ・ペッパーズは、実は空中分解の危機にあった。バンドのコンディションは決していい状態ではなかった。アンソニーは骨折し、ギタリストのデイヴ・ナヴァロは脱退目前だった。しかし、その後バンドにはジョン・フルシアンテが復帰し、“カリフォルニケイション”、“バイ・ザ・ウェイ”

で再びの黄金期を築き上げる。2016年の<フジロック>のヘッドライナーに立つ彼らは、5年ぶり11枚目のニューアルバムの制作の最終段階に入っている。

90年代はローファイの旗手として時代の寵児となっていたベックも、その後作品を重ねる中で様々に音楽性を変え、ソロ・シンガーとして成熟していく。彼も久々となる2016年のフジロックへの出演が決まっている。グラミー賞を獲得した『モーニング・フェイズ』に続くニューアルバムも準備中だ。

日本のバンドも元気だ。イエロー・モンキーは再結成を発表し電気グルーヴはドキュメンタリー映画がヒットした。

ちなみに。1997年の20年前、と考えると1978年になる。前年にアルバム『勝手にしやがれ!!』をリリースしたセックス・ピストルズが解散した年だ。ずいぶんと時代の移り変わりを感じてしまう。

1997年というのは、ひょっとしたら一つのターニングポイントだったのかもしれない。

実際、<フジロック>だけでなく、<グラストンベリー>など海外フェスのラインナップの変遷を見ても同じことを思うのだ。90年代後半から地層が固まっていくような感じがある。実力を持ったアーティストが第一線に立ち続け、そこに新人勢が加わり、ベテランもフェスの場に立つようになり、世代が縦に広がっていく。

振り返ると、パンクの70年代、ニューウェーブの80年代、オルタナの90年代と、リバイバルが大きなムーブメントとなった00年代以降の間には、ロックシーンを巡るムードに少し違いが感じとれる。常に前の世代を否定し、それに対してのアンチテーゼを掲げることでムーブメントを前に進めてきた90年代以前と、前の世代をリスペクトし、それを蘇らせることでムーブメントを作るようになった00年代以降、というか。

1997年はそういう風に世界的なロックシーンの潮流が少しずつ変わっていく、一つの変わり目を象徴する年だったのかもしれない。

tomonori-shiba_avatar_1442225161-150x150 20回目のフジロックに思うこと その2

柴 那典/しば・とものり ライター

1976年神奈川県生まれ。ライター、編集者。音楽ジャーナリスト。ロッキング・オン社を経て独立。雑誌、WEB、モバイルなど各方面にて編集とライティングを担当し、音楽やサブカルチャー分野を中心に幅広くインタビュー、記事執筆を手がける。主な執筆媒体は「AERA」「ナタリー」「CINRA」「MUSICA」「リアルサウンド」「NEXUS」「ミュージック・マガジン」「婦人公論」など。「cakes」にてダイノジ・大谷ノブ彦との対談連載「心のベストテン」、「リアルサウンド」にて「フェス文化論」、「ORIGINAL CONFIDENCE」にて「ポップミュージック未来論」連載中。著書に『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』(太田出版)がある。

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