20回目のフジロックに思うこと その3

苗場とフジロックの蜜月関係

「SEE YOU NEXT YEAR!!」

〈フジロック〉の3日間の最終日。帰り道。看板の言葉を見るたびに「いつの間にか、ここは“帰る場所”になったんだなあ」と思う。

不思議なもので、人は何度か行ったことのある場所には土地勘のようなものが生じてくる。目をつぶっても景色が想像できるようになる。ゲートをくぐって、しばらく砂利道を下った先に広がるグリーン・ステージの奥の青空。涼しげな川辺と橋の向こうのホワイト・ステージ。数十人も集まったら一杯になってしまうボードウォークの小さな木道亭のステージ。そこら中にある可愛らしいオブジェ。幻想的な夜の明かり。

森に囲まれたそれらの風景と、数々の音楽が、一緒になって記憶の中にしまい込まれる。だから、アリーナやホールやスタジアムで開催される都市型のフェスやイベントとは、全然違う体験となる。

いろんな人が「〈フジロック〉には独特な雰囲気がある」と語っているのは、そういうことなのだと思う。写真だけでもその一端は伝わると思うけれど、実際に足を運べば、なぜ沢山の人たちが「また来年」と帰り際に思うのか、肌で感じるのではないだろうか。

それに、ここ数年は親子連れのお客さんも沢山いる。キッズランドは年々大賑わいになってきている。あそこにいる子供たちにとっては、もはや〈フジロック〉自体が“夏の思い出”の一つになっているはず。郷愁を感じるような場所になってきた、ということだ。

もちろん〈フジロック〉の魅力は自然環境だけじゃない。毎年のラインナップが表現してきた海外の音楽シーンとの同時代性、世代や国境を超えてブッキングされるアーティストたち、「ここに行けば面白い音楽に出会える」という期待がフェスのブランドになってきたのは間違いない(これについては、次回に書こうと思う)。

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そして、もう一つ。それは、お客さんの一人ひとりが作るものでもある。その場に信頼と愛着を持って参加している人たちが沢山いるということ自体が、〈フジロック〉の独特の空気につながっている。たとえば行列に並んでいる時とか、ビールを飲んで椅子に座っている時とか、そういう何でもない時にそれを感じる。それぞれが自由気ままに楽しむということと、他人の気分を害さないための気遣いと、その二つが程よいバランスで同居している。ゴミがあたりに散らかるようなことも、客同士が小競り合いするようなことも、ほとんど見たことがない。かと言って同調圧力的にマナー遵守が振りかざされるピリピリした空気があるわけでもない。

おもしろいのは、99年、苗場で初めて〈フジロック〉が開催された時には、すでに会場全体にこのピースフルなムードがあったということ。そこから何年もかけてフェス文化の成熟と共に徐々に醸成していった空気というわけじゃない。最初からそれがあった。ステージ前で熱くなったり、後ろのほうで寝転んだり、それぞれの人が思い思いのスタイルで楽しんでいた。ゴミはボランティアスタッフの立ち会いのもとで分別され、ゴミ箱にまとめられていた。「世界一クリーンなフェス」という称号は海外アーティストにも伝わり、翌年以降も定着していった。

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何故このムードは生まれたのだろうか?

そもそも日本人のマナーがいいから? いや。残念ながらそうではないと思う。僕自身、ここ10数年いろんなフェスを観てまわっているけれど、いくつかの場所で殺伐とした空気を体験している。運営の杜撰さやマナーのない客に舌打ちするようなこともある。そして、第2回でも書いたとおり、97年の天神山スキー場で開催された〈フジロック〉もそういう場所だった。台風ばかりが取り沙汰されるけれど、それ以前に、会場に向かう細い道が路上駐車で埋め尽くされてバスの運行に支障が出たりしていたのだ。今考えると信じられない話だ。

おそらく、理由は二つ。一つは初年度の中止と翌年の豊洲での開催を経て、オーディエンスの側に「自分たちがフェスの当事者である」という意識が育っていたこと。そしてもう一つは、〈フジロック〉と苗場との蜜月関係にある。

プリンスホテルの親会社、当時の「コクド」っていう会社に堤義明さんていう帝王がいてさ。その堤さんが週刊誌で豊洲(フジロック98’)の写真を見たらしいんだよ。あの時はヘリコプターがいっぱい飛び回って、3万人が集まった凄まじい光景の(空撮)写真が週刊誌なんかに載ったからね。で、どこから聞いたか分からないんだけど、「主催者の日高は、それでも(来年の<フジロック>は)山の中でやりたいと言っている」っていう情報を知ったらしいんだよ。それで、堤さんからプリンスホテル東京本社に「苗場で<フジロック>をやれないか?」という連絡があったらしいんだよね。

フジロック生みの親、日高正博氏インタビュー 『後編:フジロック ついに約束の地、苗場へ』

スマッシュの日高代表が上記のインタビューで明かしているとおり、苗場で〈フジロック〉を開催するというアイディアは、西武グループの総帥だった堤義明氏の発案によるものだった。

そもそも三国峠の宿場町だった苗場をウィンターリゾートの一大拠点にしたのも堤氏だった。自ら旗を振った土地開発を経て、61年に苗場スキー場がオープン。80年代のバブル全盛期を通じて大きく発展してきた。しかし93年をピークにブームは沈静化。それ以降スキー人口は下降の一途をたどっている。おそらく堤氏にとっては、営業縮小を余儀なくされるプリンスホテルの現状に対し、フジロックを新たな苗場の“夏の風物詩”とする心づもりがあったのだろう。

そして、当初は「できない」と突っぱねていた日高氏も、ゴルフ場やテニスコートや駐車場となっていた現在の会場を見て、そこをステージにすることを思い立つ。

プリンスホテルだけでなく、周辺の人たちも賛同する「地元の祭り」に育てていく発想は当初から日高氏の中にあったという。開催前には地元の観光協会や旅館組合との話し合いの場も繰り返し持たれた。中には強硬な反対派もいたそうだが、直接会って忌憚ない話をしていく中で少しずつ〈フジロック〉に対しての信用が醸成されていったそうだ。
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苗場と〈フジロック〉との間には、当初から、相思相愛の関係があった。

そのことは、とても大きかったのではないかと思う。連載の第1回に書いたように、〈フジロック〉がライフスタイルとして定着していったこと、ロックフェスが非日常空間からレジャー空間へと変質していった背景にも、苗場という場所が持っていた土壌との相互作用があったのかもしれない。

そして、今。スキー人口はブームに沸いた10年後にはもう下降線をたどっていたが、〈フジロック〉は決してブームとして消費はされなかった。沢山の人たちが「また来年」と約束しあう“帰る場所”になっていったのである。

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柴 那典/しば・とものり ライター

1976年神奈川県生まれ。ライター、編集者。音楽ジャーナリスト。ロッキング・オン社を経て独立。雑誌、WEB、モバイルなど各方面にて編集とライティングを担当し、音楽やサブカルチャー分野を中心に幅広くインタビュー、記事執筆を手がける。主な執筆媒体は「AERA」「ナタリー」「CINRA」「MUSICA」「リアルサウンド」「NEXUS」「ミュージック・マガジン」「婦人公論」など。「cakes」にてダイノジ・大谷ノブ彦との対談連載「心のベストテン」、「リアルサウンド」にて「フェス文化論」、「ORIGINAL CONFIDENCE」にて「ポップミュージック未来論」連載中。著書に『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』(太田出版)がある。

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