「日本のフェス文化は<フジロック>から始まった。」

そんな風に捉えている人は多いと思います。そしてそれはきっと間違ってない。97年に初の<フジロック>が開催されてから今年で20年。その期間は、そのまま日本に数々の野外フェスが生まれ、拡大し、各地に根付いていく歩みと重なっています。

特に、00年代から10年代は、CDの売れ行きが右肩下がりで沈んでいく時代でした。そして、それと入れ替わるようにしてライブの動員や市場規模が拡大していく時代でした。なので、その渦中では「フェスブーム」とか「フェスバブル」みたいな言葉がメディアを賑わすこともありました。

でも、そうじゃないことは、もう沢山の人が知っています。フェスは、いまやいろんな人たちの一年のカレンダーのなかに、しっかりと組み込まれるようになった。ブームやバブルじゃなく、レジャーとして、そしてカルチャーとして定着した。そう言っていいと思います。

white_stage 20回目のフジロックに思うこと その1
white_stage 20回目のフジロックに思うこと その1

特に<フジロック>はそう。一度行ったら、たいていの人は、あの場所の虜になってしまう。森の自然の中で、生の音楽を浴びて、美味しいものを食べたりお酒を飲んだりしながら、一日中過ごす。そんな贅沢な体験に、誰もがハマってしまう。だから、沢山の人が、繰り返し訪れるようになる。そして、その積み重ねから、少しずつ「フェス文化」みたいなものが育まれていく。

でも、考えてみれば、ほんのちょっと前は、そんな場所は日本のどこにもなかったわけです。イギリスには70年代から<フジロック>がモデルにした<グラストンベリー>があった。でも、それはあくまで海の向こうの存在でした。アメリカの<ウッドストック>は、もはや遠い過去となった60年代ヒッピーたちの伝説でした。

では、果たして<フジロック>は、何を変えたのでしょうか? 20年を迎えた節目の年に、改めて、そういうことを振り返ってみようというのが、この記事です。

語るべきポイントは、<フジロック>以前にも、日本に野外フェスはたくさんあった、ということ。とはいっても、「フェスの歴史を振り返る」みたいな話をしたいわけじゃなくて。そうすると、<中津川フォークジャンボリー>(69年〜71年)や、ピンク・フロイドが初来日を果たした<箱根アフロディーテ>(71年)みたいな、はるか昔の黎明期まで行き着いてしまう。

そうじゃなくて、もう少し最近の80年代にも、実は大規模な野外フェスはあったのです。たとえば、ボン・ジョヴィやホワイトスネイクなどハードロック勢が集った84年の<スーパー・ロック’84イン・ジャパン>。たとえば尾崎豊やザ・ブルーハーツや佐野元春や岡村靖幸が出演した87年の<BEATCHILD1987>。85年にはカルチャー・クラブやスタイル・カウンシルがラインナップに並んだ<ROCK IN JAPAN ‘85>なんてのもありました。もちろん、今ひたちなか市でやっている邦楽フェスとは何の関係もないやつです。

ジャズやレゲエの野外フェスも人気でした。86年からは山中湖湖畔の特設ステージで<マウント・フジ・ジャズ・フェスティバル>が開催されています。同じく80年代半ばからは横須賀などで<レゲエ・サンスプラッシュ>や<レゲエ・ジャパンスプラッシュ>が開催され、こちらも夏の風物詩として何万人が集まるイベントに成長していきます。

red_marquee 20回目のフジロックに思うこと その1

これらのフェスと<フジロック>は、何が違ったのか?

当たり前のようなことだけど、最大の違いは「やり続けてきた」ということでした。一つの場所に根付いて、そこで経済効果も生み出して、地元の人たちも巻き込んだお祭りに育てていくという発想があったこと。だから続いていくことができたわけです。

80年代のハードロック系の野外フェスは、その多くがスタジアムでの一回限りのイベントでした。だから、観たいバンドが出なければ「来年も行こう」という気にはならない。定着しないのは必然でした。

一方<マウントフジ>や<ジャパンスプラッシュ>などジャズやレゲエの野外フェスは、一回限りには終わらず、それぞれのジャンルのファンに根付いていきます。しかし、その運営はスポンサーをつとめた大手企業からの協賛金に支えられたものでもありました。ゆえに、これらのフェスは、バブル崩壊とスポンサー企業の撤退を経た90年代後半には開催されなくなっていきます。

そして、今では信じられないけれど、そもそもこれらの野外フェスの多くは、実質的には「野外コンサート」でした。ずらりとパイプ椅子が並べてあったり、ブロック分けがされていたり。数万人がだだっ広い野原にオールスタンディング形式で集まるなんてことは、常識の範囲外だったのです。

<フジロック>はこうした前提を全部ひっくり返したところからスタートしたフェスでした。

「うちの村、毎年夏に変なのがあるんだよ」

「何やってるのかわからないけど、そんなのがあるんだよ」

 自慢というほどではなくても説明できるぐらいの気持ちになってもらいたい。そんな風に好きになってもらえたら嬉しいなと思っていた。そうやっていかないと、なかなかフェスティバルをやりたいなんていい出せないよね。

 地域の人もひっくるめて楽しんでもらおう。やるからには、最初からそうじゃなきゃいけないし、そうしないと根付かない、続いていかないと思う。

(『やるか FUJI ROCK 1997-2003』より引用)

<フジロック>を立ち上げたSMASHの日高正博社長は自著の中でこんな風に語ってます。そういう「祭り」につながる設計思想があったことが、<フジロック>が今の日本のフェス文化のスタート地点となっている理由なのです。

ちなみに。1987年の<BEATCHILD>は、最近になって『ベイビー大丈夫かっ BEATCHILD1987』というタイトルでドキュメンタリー映画が公開されました。そこには、嵐に見舞われた当日の凄惨な状況が克明に記録されています。オールナイト公演で、会場となった熊本県・南阿蘇アスペクタに7万2千人を動員したこのフェス。しかし夕方から雨足は強まり、ついには暴風雨に。会場には救急車が行き交い、一面泥まみれになり、救護テントは難民キャンプのような状況を呈します。

それを観て僕が思ったのが、「あ、初年度の<フジロック>みたいだ」ということでした。97年の天神山もひどい台風だった。ステージの上では、レッド・ホット・チリ・ペッパーズが、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンが、すさまじいパフォーマンスを見せていた。でも、あたりは泥だらけで、みんな雨に濡れてブルブルと震えていました。僕自身は一人の大学生としてあの場所にいたので、今でもその光景はよく覚えています。

ひょっとしたら、あそこで<フジロック>は終わっていたかもしれない。2年目の豊洲、3年目以降の苗場はなかったかもしれない。

もし本当にそうなっていたら、<フジロック>は間違いなく「語り継がれる伝説のフェス」になっていたでしょう。当時にあの場所を体験した僕みたいなのが、40代とか50代のウザいロックオヤジになって、酒を飲むたびに「97年の<フジロック>は本当にすごかったんだから。それに比べて今のロックは――」なんて語って若者に嫌がられたりしてたかもしれない。

#fujirock #frf97

Fuji Rock Festivalさん(@fujirock_jp)が投稿した写真 –

@fujirock_jp instagramより

そうならなくてほんとによかったと思っています。

<フジロック>は、「伝説」にはならなかった。そのかわり「ライフスタイル」になった。そういうことなんだと思います。

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柴 那典/しば・とものり ライター

1976年神奈川県生まれ。ライター、編集者。音楽ジャーナリスト。ロッキング・オン社を経て独立。雑誌、WEB、モバイルなど各方面にて編集とライティングを担当し、音楽やサブカルチャー分野を中心に幅広くインタビュー、記事執筆を手がける。主な執筆媒体は「AERA」「ナタリー」「CINRA」「MUSICA」「リアルサウンド」「NEXUS」「ミュージック・マガジン」「婦人公論」など。「cakes」にてダイノジ・大谷ノブ彦との対談連載「心のベストテン」、「リアルサウンド」にて「フェス文化論」、「ORIGINAL CONFIDENCE」にて「ポップミュージック未来論」連載中。著書に『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』(太田出版)がある。

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