豊間根 結局、廃墟でのライブは?

日高 探したんだけどね。結局、廃墟では許可が降りなかった。工場跡地だよな。工場跡地はいっぱい見た。フジテレビがさ、6時のニュースで15分間ぐらいのドキュメンタリー作ったんだよ、ノイバウテンの。ウチのスタッフの小川(スマッシュ)とか、スタッフがみんな映っているよ。夢の島でゴミ集め。それがノイバウンテンの楽器なんだから。面白かったよね。で、結局廃墟では出来ない。ただスマッシュに電話があったんだよ、新聞広告を見たお客さんから。「もしかしてこれ、ノイバウテンやるんですか!?」って。そういうすげーハードコアな人がいるんだよね。だからその時、こりゃあ成功かな? って思ったよね。成功だよね。売り切れちゃったもん。で、追加まで出しちゃったから。そいうことを考えるのは楽しいよ。

豊間根 そこからオールスタンディング・ライブを実現するきっかけとなる後楽園ホールでのライブの話を聞きたいのですが。当時僕はプロレスやキックボクシングを見に、よく後楽園ホールに行っていました。初めてそこでライブを見たのがイアン・デューリー&ザ・ブロックヘッズでした。ウィルコ・ジョンソンと一緒で、前座が清志郎さん。あれは明確にオールスタンディングをやるために後楽園ホールを選んだんですか?

日高 すげえ効率悪いんだよ、あそこ。機材を入れるにしても、1回のフロアの上の、座って見れる席の上まで運んで、そこから手で下まで降ろさないといけない。すごく重い機材をね。効率が悪いっていうのはお金もそうだったよ。会場費がね、高い。普通の会場費の2倍以上するんだよ。それと一番大きかったのは「貸さない」っていう。だってやった事ねーんだもん。実はこれが俺の大好きなところで。<フジロック>でもさ、いっぱい粘って粘ってやってきた訳だよね。天神山やる時も。なにも粘らなかったのは豊洲の時くらいだからね。

とにかくね、別にこれ、話が飛んでいるんじゃないんだよ。天神山でやる時もさ、一年ぐらいかけたかな。俺一人で行ってさ、周りに挨拶するところからはじまって、地域の人、市町村の人たちと話をして口説くしかないんだよね。ようするにさ、説明したって分かってくれないんだって。たとえば天神山のスキー場でイベントやるって言ったって分からないよ、当時。地域の人たちは全然分からないよ。一番大事なのはさ、まず俺に興味を持ってもらうことなんだよね。何回も行って、何十回も話をして。それしかないと思うね。俺を透かしてイベントを見てもらうんだよ。で、後楽園ホールもそうだった。何回も足を運んで支配人と話して、親会社と話して。スタンディングでやりたいと。それで3、4ヶ月かかったんじゃないかな。でもやっぱり許可が下りなかった。でさ、お金が高い。

まぁ今だったら言ってもいいだろ……当時は言えなかったけど。あそこでテレビの“笑点”っていう落語の番組をやっていたんだよ。だからもう馴れ合いなんだよ、テレビ局と。それで落語の高座のようなちっちゃいステージがあるわけ。それでもう成り立っているわけだよ、あそこは。それとスポーツイベントでね。

豊間根 ボクシングとかですね。

日高 うん。全部で220万ぐらいかかったよ、借りるだけで。公会堂よりキャパが半分以下なのに。だから口説いたよね。それで熱意に打たれたっていう感じだった。「なんとかします」って支配人の人が。それでやったんだよ。後楽園ホールでやった1回目のライブの時でもう、フロアの折りたたみ椅子がバッタバタだよ。始まった瞬間お客さん立っちゃって。俺らも「やれやれやれー!」だったんだけどね。お客さんが「わあー!」って前へ行って、椅子はもうバババって倒れちゃってさ。

豊間根 自分の席がない、どこ行った!? っていう。

日高 ただこれじゃね、お客さんに申し訳ないから。スタッフの石飛(スマッシュ)がステージに立ったんだよ。それで「皆さん席に戻ってください」って、椅子はないけど(笑)。それで皆さんの希望を聞きますと。「このままスタンディングでいくか意見をもとめます。賛成の方は手を上げてください」と。そりゃみんな手を上げるよね、前に行きたいから。「わかりました。ではみなさん、今から椅子を一個ずつ片付けますから」って言って。15分くらいかかったよね、係員呼んでさ。一列ずつ、始めましょうって。ライブハウスと呼ばれる所以外での、日本のスタンディングライブの黎明期と言っていい頃だね。自分で言うのもおかしいけど。どう考えたってそうだよ。30年経っているんだからさ、黎明期だろ。それからクラブチッタ(川崎)が出来るって聞いて。向こうから来たんだよ、俺は知らなかったから。こういったアイデアがあるんですって。スタンディングのライブをやる事に関してはさ、むこうはあまりピンときてなかった。任された人たちがピンと来てないわけ。キャパシティは1600〜2000人。で、「どうしたらいいんですかね」って来て。「分かった分かった、絶対入るから」って言ったけど。お客が入るかどうか気にしてるわけよ、川崎まで来てもらえるのか? って。でも「今からはそうなるから」って、「絶対やったほうがいい」って伝えた。で、やっぱりお客さんが入るわけ、スタンディングで。次がクラブ・クワトロだったかな。

豊間根 チッタが87年。クアトロが88年です。

日高 俺、ヘルメット被って行ったもんな。

豊間根 工事現場に?

日高 そう。で、「真ん中の柱をどけろ」って言った。「それは出来ません、屋台骨です」だってさ(笑)。名古屋のクアトロもやったよ、工事の時から一緒に行って。一番最初に誰をやるかを任せてくれるわけ。たしか名古屋のクアトロは、フェアーグラウンド・アトラクションていう、知っているかなあ? 俺、その時ちょうどロンドンにいたんだよ。当時一年の半分はロンドン、NY、パリだったから、俺は。で、電話で受けて、早速交渉に行ったのを覚えているよ。マネージメントに。ちょうど曲がヒットしていたんだよ、なんだっけ?

豊間根 “パーフェクト”。

日高 「パ〜フェクト♪」すごいよかったよ。マネジメントも好意的で。「行く行く、やるやる。」って信用してくれた。あの時は、東京・名古屋クアトロ、他は大阪でもやったね。最近で言えば、六本木のEXシアターだよね。出来る3年くらい前からテレビ朝日の人から色んな話を聞いて。テレビ朝日としては大きな仕事だから「どう思いますか?」って。そりゃ責任はとれないけど、「絶対成功しますよ」って。名前についてもさ、あそこコールサインがJOEXだからEXシアターって名前が出た。「それいい!」って、飲んでいる最中にね。「それがいいですよ」って。お、話がそれたね。

豊間根 ですね。

日高 大体、俺の話はそれる。

豊間根 大丈夫です、大丈夫です(笑)。90年にレッチリが来ますよね、初来日。1990年。

日高 チッタだったなあ。レコード会社総反対だったもんな。

豊間根 今年の<フジロック>のヘッドライナーでもあるので、出会いなどを聞かせてください。

日高 まず当時、チリ・ペッパーズが出てきた時代のバックグラウンドの話をすると、80年代初期にね、オールドスクールだけど、ラップが出てきたんだ。音楽っていうのはいつも“パンク”が必要なんだよ。例えばさ、プレスリー前は、ようするにポップの時代だよ。で、プレスリーは“パンク”だよね。テレビを見た人が「わあああ!」って目を覆うようなさ。テレビの『エド・サリバン・ショウ』で腰から下を映さないぐらい、“パンク”だよ。“パンク”が必要なんだよ、絶対。俺、ベートーベンは“パンク”だって思ってる、クラシック界の。あんな音楽を作り出す、編み出すっていうのは。おまけに耳が聞こえなかったっていう。天才だよな、ほんとに。ベートーヴェンの死に方っていうのはほんとに悲惨だったけどな。でまあ、それは置いといて(笑)。 

流行ったものっていうのは二番煎じ、三番煎じが出て来て、それがポップミュージックになってしまう。だから“パンク”も10年経ったら“ポップ”になっちゃった。そしたらさ、それをぶち壊すものが自然に出てくるんだよ。だからさ、この話をイギリスのミュージシャン達と話すと「そうだよねー。それが見えたら俺らマネージャーになった方がいいね。」って。これから先はこれだー!!って。でも先はなかなか見えないもので。ビートルズだってストーンズだって、初めは誰もわからなかったんだから。60年代、ブリティッシュ・インベーションがアメリカに伝わって、アメリカからもその返答でいろんなバンドが出て来て。でも時間が経つと結局似たようなものになっちゃうんだよ。で、イギリスのパンクに対するアメリカからの返答がブルース・スプリングスティーンだったと思うよ。俺が言っている“パンク”っていうのは、音楽性の“ショック”さと、その時代に対する“ショック”だよね。お客さんが「うわあっ!」っていう。十分だったよね、スプリングスティーンは、やっぱり。で、それからもう、アメリカの音楽って本当にどうしょうもなくなる。すげえいいバンドだった、J・ガイルズ・バンドがポップバンドになってしまって。もうみんなスタジアム・クラスになって。で、その時に出てきたのが“ラップ”だったんだよ。これから先はこれだろうなって思ったよ。ただね、招聘はしなかったんだよ、その頃は。で、アメリカやイギリスに行ってみたらラップとヘヴィメタルが融合したような音楽に出会って、「これだーー!!」と思った。これが“未来”だと。それがチリ・ペッパーズだったんだよ。

MG_3287 フジロック生みの親、日高正博氏インタビュー『前編:フジロックができるまで』

豊間根 なるほど。当時の音楽シーンにパンクとして作用するべくレッチリが出てきた。

日高 そう。で、チリ・ペッパーズはいつかやりたい、いつかは日本で、ってずっと思っていて。90年、レコードが出るって話になって、早速「やる!」って言った。口説きまくったよ、イギリスで。アメリカのバンドだけど、イギリスにエージェントがいたんだよ。ちょうど活動してなかったんだよね、その頃。メンバーの1人が死んだんだ、ドラッグだったよね。で、活動してなかった。でも好きだったんだよ。で、レコード会社に話して。どこのレコード会社かは言わないよ? まあ、調べれば分かるだろ(笑)。彼らに話した。そしたら「やめてください!」って。また(笑)。よくあるんだよ。エルビス・コステロも83、4年か、やめてくれって言われたな。レコード会社を突き放すのは簡単だよ。でも、俺はそれをしたくない。絶対理解して欲しいし、「理解して下さい」って話をして。で、とにかく「観に来てくれ」と。俺、その時チッタに行ったんだよ。そこにレコード会社の部長が来たわけだ。俺、今でも覚えている。「日高さん、目からウロコってこの事ですね」って。「考えが変わりました」って。「今までの我々の考え方じゃいけないんだな」って。そう言ってもらえて嬉しかったよ。それがチリ・ペッパーズのライブの初日。二晩目が終って、メンバー全員連れて、みんなで食事に行こうぜってなって。(海外のメンバーはこの記事見ないから言ってもいいだろう(笑)。)アンソニーってのは思い込みの人なんだよね。そのとき彼は酒飲んでいたんだよ(笑)。川崎の居酒屋で、畳だよね。でっかい部屋貸し切って、メンバーとウチの連中、日本の女の子何人か、彼らが連れてきた子がいた。その中の一人、たぶんアメリカと日本の……日本語で今なんて言うの? 正式には「ハーフ」って言わないんだっけ?

豊間根 いや、全然言いますよ。

日高 そのハーフの女の子がアンソニーの横でアンソニーにもたれかかっている。今でも覚えているよ。アンソニーは真面目だからさ。で、みんながわーっといっぱいいるから、アンソニーがわざわざ俺の所に畳の上を足を擦るように寄って来た。で、「俺、結婚したい、この子と」って。その日に出会っているんだよ!?(笑)

豊間根 まじですか!? 頂きました、その話!

日高 それで、「別にいいじゃないか」って言った。俺は知ったこっちゃないって。だって結婚するって、するハズないんだから! 結婚するならすりゃいいだろって。こういう場だから、その時の本人の感情ってさ。惚れたらそれぐらい、ってところがあったよね、アンソニーには。その後に俺が彼らに聞いたんだよ。「2日目終わって、全然、丸裸になってねえじゃねえか!」って。これ『ロッキング・オン』調べれば分かるよ。その時の事がさ、『ロッキング・オン』に載ったからさ。で、メンバーが「出来ないんだよ」って。アメリカで訴えられていたんだよね。ある女性が全裸の男性4人を見てしまって、精神的にどうかなっちゃったらしくて。アメリカでは訴えるのは一つの文化だから。いろんな民族の集結だからね。だから出来ないんだよねって。それで俺が「いいからやりなさい」って言ったんだよ。全責任は俺が取るからって。「ほんとにいいんだな?」って言うから、「明日最後だから、やれやれやれー!!」って。で、アンコールで。

豊間根 ちんぽソックス!

日高 こっちが用意した! あれ、コンドームだったっけ?

豊間根 靴下です。

日高 楽屋に用意した。で、当時の『ロッキング・オン』の編集長がチリ・ペッパーズにインタビューした時にその話になったらしいんだ。アンソニーがその時の話をしたんだって。「俺たちはヤバいと思ったけれど、(日高)マサが、全部マサがやれやれっていうもんだから。」って。そしたら『ロッキング・オン』から電話がかかってきて、この話を載っけていいのか? って聞くから「構わないよ」って。言ったことは本当の事なんだからって。

豊間根 それからメンバーとの関係は友情と呼べるような?

日高 友情? うーん、まあ売れちゃったから、俺のほうが3歩ぐらい引いちゃったけどね。要するに位置的にプロモーターだから。でもまあ、お互いに友情はあるよね。その時から何回もやったし。1回だけチリ・ペッパーズは他とやったことがあるんだ。3回目の来日かな、武道館の時。武道館でやりたかったんだって。でもその時、俺らは武道館を押さえてなかったんだよ。向こうもオレたちとやりたい、でもオレたちは武道館を持っていない。武道館は他のプロモーターにおさえられているっていう状況でね。普通はね、こういうことなんだよ。Aが武道館を持っていたとするじゃない?で、マネジメントがBを選ぶだろ? そしたら普通AはBに譲るわけよ。でもね、意地でも譲らなかった、その時。キャンセル料払ってもいいって。

豊間根 (譲らず)持ち続けると?

日高 持ち続ける。まあ意地だったんだろうね。もうどこと言わなくても分かるよな(笑)? だからもう、しょうがねえ。ギブアップだよね、俺らには会場がないんだから。で、その後はまた(招聘は)こっちに帰ってくる。97年の<フジロック>については、ずっとその前から話していたんだよね、チリ・ペッパーズには。こんなことをやるかもしれないから、と。こんなことっていうのは具体的には言っていない。ようするにフェスティバルをやるかも知れないから「来いよ」と。でも、いつになるか分からないと。そうしたら「行くよ」って言ってくれた。これダイレクトにメンバーとマネージャーに話していたんだ。

豊間根 その前に二度目の来日中に、ジョンの脱退っていう。

日高 ああ、あれは俺もきつかったな……。

豊間根 そこを話せる範囲で聞かせてください。

日高 うん。まあ「あるだろうな」とは思っていたんだよ、ツアー中に。あの時はね、ツアーはほぼ消化していて、東京が一カ所と、名古屋が一カ所だけ残っていたのかな? 大宮ソニックシティの時、俺は東京にいた。それでウチのスタッフから電話がかかって来て。「ちょっとエラい事になっている」と。「キャンセルするしかないかも知れないです」って。「なにがあったんだ?」と。「ジョンがダウンしています」って。心理的な問題で。すごくナイーブな人だから。で、来てくれっていうからさ。ま、説得してくれってことだよね。行ったよ。東京がまだ残っていたから行くつもりなかったんだけど。で、行ったら本当に楽屋に座り込んでいるわけ。で、マネージャーが一生懸命、口説いているんだよ。「やろうよ、やろうよ」って。実は前日からダメだったらしいんだよ。精神的にダウンしていて。でもとにかくやったんだよ。それで終わった時に話をして。ジョンは精神的に参っていたけど。まあ、明日も出来るだろうってことになって。で、俺は帰って。その後酒飲んでいたんだよ、ウチの連中と。夜中の2時だったな。夜中に、いやーなものを感じた。で、あのとき確かホテルが六本木のプリンスホテルだった。それでホテルに電話したんだよ。

豊間根 誰にですか?

日高 メンバーとマネージャーに。アンソニーが最初に電話に出た。「マサ、ちょうど横にマネージャーがいるから替わるね。」って。その時にはかなり悪い予感……もう実感していたんだけど。そうしたら「やっぱり無理だ」って。「みんなでミーティングしたんだけど、これ以上は出来ない」と。日本の次がオーストラリアだったんだよね。「もう明日にはオーストラリアに行く」と。で、「ジョンはどうするんだ?」って聞いたら「アメリカに返す」と。その時ジョンは面白い事を言ったんだよね。「俺はチリ・ペッパーズのファンだから、一緒にオーストラリアに行って、ライブを観たい。」って。こいつ、面白いなって思ったよ。結局、残りの日本をキャンセルして、オーストラリアに行ったんだよ。で、アメリカで即告知を出して、ギターのオーディションだよ。で、彼が入ったじゃん。

豊間根 デイヴ・ナヴァロ。

日高 そう。当時チリ・ペッパーズとあともう1つバンドがいて、ギターがバーナードとかっていう奴がいるバンド、なんだったっけ?

豊間根 リヴィング・カラー。

日高 そう、リヴィング・カラー。〈ポリドール・レコード〉まで行って、レコードを出すように、出すようにって言ったんだけど全然理解がなくてさ。そんなの売れるわけないですよって。結局日本に来た時の招聘は、俺らじゃないんだよね。さすがに頭に来た、俺も。俺が言ったことが伝わった。情報ってね、伝わるんだよ(笑)。例えば、イギリスでもこういうことがあったんだよ。イギリスで俺の後を追っかけてくる人がいるんだ。俺が誰と会ったか? とか、そういう情報を追っているのね。日高は一体どのバンドの話をしてた? とかさ。日本のね、あるプロモーターだったんだけど。そういうことってあるんだよ。で、リヴィング・カラー。レコードまで出させたのに結局来日公演はウチじゃないところが招聘したんだよ(笑)。椅子に座るコンサートでね。

これに似た話がもう1個あった。シアトルのニルヴァーナ。カートが死んだ後だったかな。ある時ね、アメリカのマネージメントが突然飛び入りで俺の事務所に遊びに来たんだよ。フー・ファイターズとかビースティー・ボーイズとかベックとか色んなアーティストのマネージメントをやっている人で、ノラ・ジョーンズも彼がマネージメントなんだよ。ただ当時、俺はまだ全く知らないわけ、彼を。2人で話していて「今まで君何やっていたの?」って聞いたらさ、「ニルヴァーナ」って。「君かーー!!」って(笑)。別に俺らがやろうとして他の会社に取られたことを恨んでいるんじゃないんだよ。会場がさ、ほとんど客席のコンサートだったんだよ。特に大阪では、スタンディングの所も全部冊で区切っちゃってさ。すっごい評判が悪かったんだよ。で、バンドからも評判が悪かったんだ。「君かー!!」って言ったのを覚えているよ。別に彼が悪いんじゃないんだけどね。それはプロモーターがやったわけだから。それから一時間ぐらい音楽の話をして。それからだよね、彼がやっているアーティストを俺のところに全部預けるようになったのは。その前は他でやっていたベックとか。うん、いっぱいいる。

豊間根 中でもノラ・ジョーンズは異色ですね。

日高 まあやってないのは、ノラ・ジョーンズだけだよね。彼女とは一緒に酒を飲んで、野球の話をした。彼女、テキサスなんだよね。3年くらい前かな、マネージャーが日本に来た時に食事をしたいって言って来てさ、「ノラを連れて行っていい?」って。プロモーション来日だったんだよ。で、ノラと、ノラのお母さんと、マネージャー、三人で来て。で、近くの俺の知り合いのレストランで食事をしたんだ。色々話したよ。音楽の話にはならないんだよ。ノラは、お母さんっ子なんだよね。ノラのお母さんが、テキサスだから野球が大好きなんだよ。で、彼女が俺に聞いたんだよ「ダルビッシュって誰?」って(笑)。その時ちょうど2月か3月で、彼がレンジャーズに入った時だから。ダルビッシュの説明をしてさ。「18勝以上間違いない!」って。「どんな球投げんの?」って聞くからさ、「ファストボールとチェンジアップとスプリットフィンガーがめちゃくちゃ良いから」って説明して。「18勝から20勝間違いない」って。それで盛り上がったっていう。音楽の話から全然外れるんだけど……(笑)。

豊間根 ノラ・ジョーンズ、見たいですね。<フジロック>で。

日高 ちょっとなあ。俺もそう思っているんだけど。やるとなるとヘッドライナークラスになっちゃうからね。そしたらよっぽどいい前後の関係を組まなきゃ難しいからさ。特にロックっていうだけでノラのお母さんの顔色がね(笑)。

豊間根 え! そうなんですね!(笑)

日高 ま、また話が逸れちゃったけど。(笑)

豊間根 90年から97年の<フジロック>までの期間は、その後に<フジロック>のヘッドライナーを務める人たちが、初来日含めこぞって来日して、スマッシュがうわーっと公演をやっていくんですけど。例えば、90年にビョークがザ・シュガーキューブスで初来日。プライマル・スクリームも90年に初来日、翌年『スクリーマデリカ』ツアー。そしてオアシスが94年、初来日ですよね。95年にはストーン・ローゼズ、『セカンド・カミング』ツアー。ローゼズの一発目もスマッシュではなかった?

日高 うん、うちじゃない。これもね、全く同じ話だよ。やっぱりロンドンにいたんだ。初来日の時、1回目の時ね。マネージメントと話していたんだ、今でも覚えている。ある日、ミーティングがあったんだよ、朝10時ころ雨が降っていてさ。タクシーを捕まえようと、ホテルを出て歩いていたら、ホテルの人が俺を呼ぶわけ。「ミスターヒダカ!」って。「日本から電話です」って、うちの会社から。電話に出ると「日高さん!ストーン・ローゼズ発表されていますよ」って。「ええー!?」って。で、予定変更だよね。ストーン・ローゼズのマネージャーと話して、「おい、全然話が違うじゃねえか!」って言って。そうしたら「知らない!!」って。「そんなのOK出してない」と。それで日本に電話して「マネージメントは知らないって言っているよ」って伝えて。マネージメントは抗議するって言っていて。日本のプロモーターだよ? どことは言わないけど、よくやるんだよ(笑)。

豊間根 ……先に発表しちゃう?

日高 そう、先に発表しちゃうんだよ、取られそうだと。よくやるんだ。他にもある。ジャクソン・ブラウンの3回目で同じ事をやったんだよ。これはマネージャーにダイレクトで聞いたから、俺は。日本のプロモーターの名前を聞いて、まーたかい! って思ったよ。で、俺は諦めるわけ。そしたらマネージメントが、これはビジネス上、絶対抗議すると。でも俺がストップをかけた。綺麗なほうがいいと。こんなのはスキャンダルで、俺にとっても気持ちの良いものじゃないと。確かに俺も頭に来ているけど、これでキャンセルして、あなた達にもいいイメージは付かないし、今度は揉めるよ、いろんな意味でと。どんな揉め方をするかは分からんけど、やめた方がいいって。オレたちは引くからって。で、諦めたんだよ。これは誰にも話してないことだよね。あの、雨のロンドンを覚えているよ。それがあって2回目は俺の方に来たよな。あれはおもしろかったな、ストーン・ローゼズは。1回キャンセルになったろ?

豊間根 はいはい。ジョン・スクワイアの自転車事故?

日高 来日直前に、ジョンがサンフランシスコで骨を折ってさ。朝電話で起こされたんだよ。アメリカから自宅に電話がかかってきて。要するに麻酔がとか、治療してどうのこうのって言うから、半日待ったんだ。でもやっぱり無理だと。しょうがねえなと。キャンセルはキャンセルでしょうがないと。諦めは早いから、俺の大得意だからね。でもクルーはすでにロンドンから来ていたんだよ。マネージメントやケータリングの女の子2人がさ。直前だったから。で、マネージメントに対しては金の心配をしているわけじゃないんだけどさ、ただ俺のやり方があるから。毎晩ごはんを食べに連れて行くわけ。で、聞かれたもん。「なんであなたに損させたのに、こんなにオレたちに良くしてくれるの?」って。それが俺のやり方だからさ。友達って言うかさ。同じ仕事しているんだから当たり前でしょうって。ビジネスで損したからあなたはダメよ、みたいなのは、それは出来ない。俺のやり方としてできない。で、マネージメントはそれから2、3日して帰ったんだよね。ところが女の子2人がさ、安いチケットで来ているわけよ。だからフィックスされたチケットなんだよね。要するに、ツアー終わりで帰るチケットだから変更できない。変更するにしても、えらいお金がかかるし、またチケットを買い直さなきゃいけないわけ。女性二人が困っていたもんだから「分かった」って言って。「俺ん家に泊まれ」って。向こうでは当たり前だからね、ホームステイ。冷蔵庫のものは自分で勝手に食べろ、自分で好きなところに行きなさい、って。で、何かあったら電話しろって言ったの。彼女たち喜んじゃってさ。で、一週間ぐらい居て帰っていったよ。

豊間根 94年にオアシスが初来日します。有名な話ですが、日高さんが現地で一目見て、これはデカくなると?

日高 うん。ロンドンのオックスフォード・ストリートにある「ワン・ハンドレッド・クラブ」っていう有名なライブハウスがあってね。ところでさ、向こうではライブハウスって呼ばないんだけど、日本ってそういう呼び名をつけるの上手いよね。野球の夜の試合を“ナイター”。あとは“フリーター”とかさ。英語じゃない。たぶん好きなんだろうな、そういうの。安いアパートを“マンション”とか。お前、冗談じゃねえぞってさ(笑)。

また話が逸れたけど(笑)、「ワン・ハンドレッド・クラブ」ってところには、デビュー前のストーンズも出てた。そこで初めて見たバンドはいっぱいいるよ。オアシスを観たとき、全然満杯じゃなかったよね。200から300人だったかな。でもこれはイケルと思った。

豊間根 当然デビュー前ですよね。レコード出る前?

日高 うん。俺、聞いたもん「レコード会社どこなの?」って。〈クリエイション〉(クリエイション・レコーズ)だって言うから。ああ、社長はよく知っていると。アラン・マッギーだから絶対売れると思ったよ。でもあんなに売れるとは思わなかったな。で、まあその日、即日本に電話したんだよ。ウチの連中はさ、結構ね、海外から電話がかかってきて、俺から「いいバンドがいるぞ」って言われるのがさ、あんまり好きじゃないんだよ。自分たちは観てないし、名前も知らないし。「またかよー……」みたいな。で、明らかに電話の向こうからはそういう雰囲気があるわけよ。

豊間根 なるほど。なんか面倒くさがっているぞ…っていう?

日高 そう、またですかって。「俺の言う事を疑うんだったらさ、会場に『ロッキング・オン』のコレスポンデンス担当のスタッフを見かけたから、『ロッキング・オン』に電話してみろ」って言ったんだよ。で、「絶対彼女も気に入っているはずだから、今頃編集長のところまで話が行っているはずだから」って言って電話を切った。そしたらすぐに日本から電話がかかってきて。「えらい騒ぎになっていますよ! 『ロッキング・オン』で」って。「イチオシですよ、オアシス!」だって(笑)。

で、その時、ソニーはノーとは言わなかったよね。『ロッキング・オン』が騒いでいたから。俺としては絶対クラブ・クアトロ、三回は売り切れると思っていたからね。それでクアトロ二回で話をまとめている時に、飛び込んできたんだよ、他の会社が。倍のお金をかけて、もっと大きい所でやるって。その時、俺はマネージメントのオフィスに居たんだよ。それで、その話を聞いて。それなら俺はもっと大きい所でやるぞ、って言った。出来るから。そしたら「いや、やらなくていい」と。こういうところが、俺がイギリスの人たちを好きなところだね。「お前が初めに話してくれた」と。「まだ海のものとも山のものともわからない俺たちに、お前が最初に話してくれた」と。「俺はそれを尊重するよ」と。「だからそのままでいい」と。「お金もそのままでいい」と。「他のプロモーターがいくらお金を積んでも、他のところには行かない」と。で、決まったんだよ。
今でも覚えているよ。一日目のクアトロが終わって「食事にでも行こう」と。で、みんな後片付けしているわけ。そこにリアムがさ、ステージ上から機材を片付けているクルーに対して、ネットに入ったサッカーボールを蹴りながら「おい、早く行こうぜー」ってさ。ガキ大将だよな。オアシスのクルーは、早く機材を運び出さなきゃって、みんな仕事しているんだよ? 「こういう男か、こいつは!」って思ったよ(笑)! 今でも変わってないもんなあ。

今回は、<フジロック>開催前までの話を生々しく語ってくれましたが、次回(vol.2)は、今でも語り継がれている1997年の第一回の<フジロック>、そして会場を豊洲に移した第二回目の1998年にフォーカス。1997年の天神山での初開催にいたる経緯から、波乱に満ちた当日の裏話、そこから1年の間に起こった様々な出来事まで、どこにも語られることのなかったことも含め、今でも語り継がれている<フジロック>立ち上がりの2年間で起こったすべてが明らかに!

4月8日公開予定の、vol.2も乞うご期待!

Photo by 横山マサト
Interviewd by Satoshi Toyomane
Text by Shotaro Tsuda

中編はこちら
後編はこちら

INFORMATION

『SMASH go round 20th Anniversary』 FUJI ROCK FESTIVAL’16

music140217_fujirock1 フジロック生みの親、日高正博氏インタビュー『前編:フジロックができるまで』

2016.07.22(金)、23(土)、24(日)
新潟県 湯沢町 苗場スキー場

詳細はこちら