各界のキーパーソンによって<フジロック>を語り尽くすコーナー「TALKING ABOUT FUJI ROCK」。『富士祭電子瓦版』が立ち上がって以降、大物女優から人気お笑い芸人まで、様々な著名人が登場した本コーナーに、ついに登場するのは……<フジロック>を主催するSMASH(スマッシュ)の代表・日高正博氏! <フジロック>が記念すべき20回目を迎えるということで、「TALKING ABOUT FUJIROCK」特別篇をお届け!

『富士祭電子瓦版』の立ち上げ人であり、<フジロック>オフィシャルショップ・岩盤 / GAN-BANの代表を務める豊間根聡氏が、日高氏の自宅にて、3時間に及ぶインタビューを敢行。前編は、<フジロック>開催前までの出来事を生々しく語ってくれましたが、中編となる今回は、今なお語り継がれている1997年の第一回の<フジロック>、そして会場を豊洲に移した第二回目の1998年の<フジロック>にフォーカス。天神山での初開催にいたる経緯から、波乱に満ちた当日の裏話、そこから1年の間に起こった様々な出来事まで、どこにも語られることのなかったことも含め、<フジロック>立ち上がりの2年間で起こったすべてが明らかに!

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INTERVIEW:SMASH 代表・日高正博氏

豊間根 97年、1回目の<フジロック>の話に入りましょう。なんと言ってもあの時のラインナップは今見てもスゴイですね。

日高 うん。でもさ、97年のラインナップがすごい、すごいと言っちゃったら、他の年のラインナップが悪いように聞こえちゃう。それはミュージシャンに失礼だから。そこは誤解を与えないようにして欲しい。

でもこれは聞いて欲しいと言うか、あの頃はね、俺の人生の中でも本当にいろいろあったんだよ。表現できない、いわゆる不安との戦いだったんだよね。一年かけて天神山を口説いて。ウチの連中には何も言わないでね。<フジロック>みたいなものをやるとも言わないで。でも噂はひとり歩きするんだよね。社内や社外のスタッフの中に、「日高がなにか変な事考えているみたいだぞ」って。で、ある時みんなに話して。「今から場所を見に行くぞ」って。

豊間根 社内のみなさんと?

日高 そう、はじめて連れて行ったんだよ。その時は全部交渉ごとを終わらせた後だったんだけど(笑)。天神山のスキー場もね、最初反対だったんだよ。上九一色村が、ど真ん中だったからさ。ちょうどオウムの事件がその前の年だったかな。それの悪評があって。上九一色だけでなく、隣の村も富士五湖も含めて周辺一体が良くないイメージがたったからさ。そりゃそうだよな、毒ガスだのサリンだのって話だもん。そういうのがあったから、怒鳴りつけられた事もあったよ。俺、殴ろうかと思ったもん。勝山村の村長。これ書いていいよ。もういないから。

豊間根 え、殴ってやろうかと思った!?

日高 挨拶に行ったんだよ。で、いるだろ? 田舎のろくでもないトップ。机の向こうでふんぞり返ってさ。「ああ……なんか、わけわからんけど。まあ……ねえ」って、そんな感じだった。で、開催発表した。テレビでも発表して、新聞にも載っている。でもそのバカな村長はさ、そういうの見てないんだよ。で、一ヶ月経ってから天神山スキー場の人経由で呼びつけられた。で、行ったらさ、怒鳴りつけるんだよ、「何でこんなことやるんだよ!?」ってさ。俺が「OKって言ったじゃないですか!」って言ったら、村長が「ええ!? 俺、言ったか?」だって(笑)。そんな感じだよ。実は、その人がなんで知ったかっていうとさ、地域のミニコミ誌を見て知ったんだよ、一ヶ月遅れのね。ってことは、こいつは新聞も読まない!新聞も読まなきゃ何も見ない!こんなのが村長かよ!? って思ったよね(笑)。だからここに書いていいって言ったんだよ。当時の勝山村の村長。他の人たちは良かったんだけどさ。

豊間根 そうだったんですね。ちなみに今ではすでに定着している「フェスティバル」の概念って、一般的にあった時代じゃないですよね?

日高 ないない。わかんないよ

豊間根 じゃあ説明してもわからない?

日高 要するに“ロック”っていう言葉にまず偏見があったからね。だから苗場の時には反対派の人たちに、敢えて悪い事しか言わなかった。反対派がいっぱいいたから。住人の50%が反対だったからね。「いやー、それはもう大変ですよ」と。「ゴミは出るは、入れ墨にピアスです!!」とか言ってさ(笑)。俺は、悪い事しか言わないから。いいことだけしか言わない、っていう方がおかしいからね。

豊間根 なるほど。

日高 でもまあ、97年は確かにね、アーティストはもの凄く協力的だったよね。例えばさ、(レッド・ホット)チリ・ぺッパーズの出演が決まって、レイジもいただろ? あとはフー・ファイターズがいて。俺としては「文句ねぇだろ!?」って思うんだけど、やっぱり不安になるんだよ。初めてのアウトドアでキャンプ、それも東京から離れている。俺はさ、失敗したら会社は倒産だと思っていたからね、当然。俺、そういう瀬戸際まで自分を持っていかないとやれないんだよ。例えばスタンディング・ギグをやるって時にしても、売れてないアーティストだから、それは先が分かんない。リスクは当然もの凄く高かった。そうやって、どっかでギリギリまで自分を追い込みたいていうのが潜在下にあったんだろうな、って思う。そう考えると、10代の頃からそうなんだよな。先行き考えないで、今やりたい事をやるっていう。で、まあ97年の開催前、3月〜5月ってのは苦しかったよね。昼間はさ、「バンドは決まった!もうこれで十分だ!」って思う。で、夜になって酒を飲んで「もう十分だよな?」って。家に帰るともう悪夢に襲われるんだ。「本当にこれでいいのか? 本当にこれで十分なのか?本当にこれでお客さん来てくれるのか?」って、強迫観念になっちゃう。怖くてしょうがなくなる。怖かったんだよ。それであのラインナップになるわけよ。時間設定無視だよね。夜中の12時を超えることは間違いないんだから。俺の「これでもかっ! これでもかっ!」っていう原点はあそこにあったんだよ。

豊間根 日高さんでも「怖い」と思った……。

日高 やっぱり不安感が強かった。それで2日目については、最初はヘッドライナーはベックで話してたんだよ。そうしたらグリーン・デイが飛び込んできたんだ。マネージメントが「出してくれ」って。もう「ありがとう」と。「完璧だろ!?」って思うよね。ベックにグリーン・デイ、その前にザ・シーホーセズ、「文句ねぇだろ!?」って。でも、夜寝れねぇんだよ。それでさらに、どうなったかって言ったら、もう番外編だよ。時間無視のプロディジーだよ。プロディジーまで突っ込んだ。自分のなかの強迫観念の固まりが、ああいうブッキングになったんだよ。だけど今振り返れば、やっぱりすごいラインナップだったと思う。それは彼らの協力があったから出来たんだよ、ほんとに。「日本で初めての本格的な野外フェスティバルに出たい!」って。これは嬉しかったよ。日本のアーティストの方が「えぇ?」って感じだったから(笑)。

豊間根 チケットの売れ行き、気になりました?

日高 なったなった。ウチの会社は、多分こういう仕事の中で、一番最初にチケットをウェブサイトで売り始めたと思うんだよね。で、売り出してから一日目が700だったんだよ。700……かと。喜んでいいのか、ガッカリしていいのか、分かんないんだよね(笑)。不安だったからさ、うちのチケット担当の半田さん(スマッシュ)に「これって喜んでいいのかな?」って聞いたら、「私も分かんない」って言われて(笑)、初めてだから結果的に2日間ソールドアウトになったんだけどね。

豊間根 ソールドアウトして、日高さんの不安は一旦は落ちついたんですか?

日高 「ああ、もうこれ以上バンドをブッキングする必要はねえな」って思った。売れなかったら「また考えよう」だもん。

豊間根 どのくらいでソールドアウトになったんでしたっけ?

日高 1日目と2日目で、2日目の方が若干遅かったんじゃないかな。やっぱりまだ当時は、動きはスローだった。ひと月はかかったんじゃないか? 今だったら、ブン! だよな。やっぱりお客さんからみれば、わけわかんないでしょ?どうやって行けばいいの?どこに泊まるの?みたいなさ。トイレは? 駐車場は? っていう問題があるからさ。

豊間根 日高さんは、お客さんに「これは単なる野外イベントじゃないんだ」ってことを最初から認識されると思っていました?

日高 思ってないよ。だって俺、日本人だもん。よく知っているよ。おまけに台風が来ちゃったから。

豊間根 そうですね、お客さんと(認識を)共有するチャンスも奪われたっていう感じですよね。

日高 台風さえなきゃなぁ。あの台風自体、はっきり言うと日本の観測史上あり得ないと言われた台風だったんだよ。9号ね、ナンバー9。台風って知っているよな?自分で動けないっていう。風がないと動けないから。最初九州寄りにあった台風がさ、西から偏西風が来ちゃったんだよ。それで石川県能登半島まで行っちゃったわけ。そこで風が無くなっちゃって、その辺に停滞したんだよ。そういう事ってあんまりない。その余波であんな台風になっちゃったんだよ。

豊間根 日高さんの中で、97年の良い思い出を教えてください。

日高 今でもよく覚えてるよ。<フジロック>で石のアートをやってるハンサムボーイのゴードン(スマッシュ・ロンドン)いるだろ?あともう一人アレックスっていうロンドンの友達と、前乗りで一週間以上前からあそこでキャンプをやっていたんだ。日本人は俺だけなんだけど。メインステージの近くにキャンプを張ってさ、そこに水道があったんだよね。毎晩料理してさ。ゴードンはフレンチのシェフなんだよ。楽しかったな。
木曜の夜中の3時くらいに、お客さんが来るかもってことで、テントを移したんだ。あそこは標高1300mから1500mぐらいかな。で、もっともっと上にテントを持って行って張らせたんだよ。そうとうキツイんだよ! 5合目付近だし、酔っ払ってるしね
(笑)。「夜中の3時にこんなとこ歩くのかよ?」とか「誰だよ? こんなところにテント張れって言ったの!」って声が聞こえて来て、「俺だよ」って(笑)
俺とロンドンのクルーと一緒にさ。一生忘れないだろうな、あの光景は。全部緑なんだよ、草が一面で。振り返るとさ、河口湖周辺からみんな見えて。それが全部月の光を浴びて、霧雨が降っていて。本当に涙が出そうなぐらい綺麗だったね。あの光景と、その後の<フジロック>の現実の光景が一緒になっているから、忘れられないんだろうね。それが2日経ってあの悲惨な光景になったわけ。

豊間根 それは本当にお客さんのお立場では想像出来ないですね。あの時、お客さんは台風しか経験してないですから。

日高 あの経験で(フジロックに)来なくなった人もいるだろうけどな。実はあの頃、朝霧アリーナも交渉しているんだよ。今の<朝霧JAM>の会場の上に宿泊施設の建物があるんだけど、あそこは実は県がやっていて、学校の先生が経営しているんだ。要は野外教育の施設なんだよ。そこに、今は引退されたけど当時の所長さんで田所さんという方がいて、話したんだよ。実はこういうことをやりたいって。<フジロック>をやりたいって。それが結果的に<朝霧JAM>になるわけだけど。一時間ほど説明したわけよ。キャンプを入れて、こういうのをやりたいって。で、音楽がメインだから音楽が好きな若い人に、都会ではない場所で、都会ではない楽しみ方で楽しんでもらって、将来の自立性に繋がっていけば、とかね。もういろんなことを話したわけよ。そしたら所長の田所さんが「分かりました。我々が出来ることはやります」って言ってくれて。その時に田所さんに言われたのが、「日高さんは我々と一緒ですね」って。「えー? 俺は学校の先生じゃないよ」って思ったんだけど。そうじゃなくてさ、なんかね、「自分達が生徒に教える時の気持ちと同じです」ってことだったんだよ。要は、「生徒に野外活動を通じて、いろんなことを知って欲しい」ってことで。「同じ気持ちですね」って言われた時に、俺は「えっ?」って思ったんだけど、もしかしたら、「そうとも言えるかもな」って。確かに「やろうとしていることは似てるかもな」って思ったんだよ。好きな音楽を通じて、ゴミは自分で片付ける、食料は自分でなんとかする、譲り合え、喧嘩するな、で、ちゃんと後片付けして帰ろうって。

豊間根 確かに、似ていますね。

日高 1年目は台風のこともあって、そういうことを全然伝えられなかった。上手く行かなかったことの原因に、台風が半分以上を占めているよね。で、あとはそうだな、俺たちの情報が伝わってなかったね。伝えきれていなかったんだと思う。ハイヒールで来るなって、そこまで言わなかったしね。でもまあ、お客さんに対する情報も万全じゃなかった。
で、あの日、日曜日か。日曜日はキャンセルした。でもね、俺はこういう風に思うことにしたんだよ。神様は信じていないけど、いるとしたら、神様は俺に雨をぶっかけて、「ザマアミロ」と言ったんだよ。要するに、チケットはソールドアウトだろ? そんなに上手く行くわけないよ、世の中。その洗礼だったんだろうなって思ったね。これを教訓にしないといけないって。だってさ、俺、ウチの会社が保険に入っていることを知ったのは一週間後だよ! その一週間どれだけ悩んだと思う? だって払い戻しだし、何億の損害だから、もう倒産覚悟だよね。俺としては、えーと、誰に借金しようかな? と。でも何億も貸してくれる人なんかいないから、ひたすら考えるだけよ。どうやって人を騙して、詐欺でもやって金を集めようか? とか(笑)。そんなことを考えていたら、一週間後に言われてさ、怒ったもんなー(笑)。

豊間根 保険は、日高さんに内緒で入っていたんですか?

日高 内緒も何も、俺が知ってなかっただけなんだよ。ばかやろー! って(笑)。でもまあ、あの時の台風が教訓だよね。お客さんにも教訓になったんだと思うよ。
そうそう、チリ・ペッパーズの話を補足すると、<フジロック>に来るにしても日本だけじゃ金にはならないんだ。だからアラスカを入れて、ハワイも入れていたんだよ。そしたらアンソニーが怪我をした。でも「ツアーはやる」って言っていたんだ。ところが彼ら、アラスカをキャンセルしたんだよ。で、日本とハワイはやるって。で、そのあとハワイもキャンセルしたんだ。その時は焦ったよね。日本もキャンセルするんじゃないか……? って。で、連絡したんだよ、「大丈夫なのか?」って。そしたら「日本には行くから」って。で、本当に来た。
97年の<フジロック>の会場で、台風の大雨の中で俺は彼らの楽屋に行ったんだよ。ドロドロで楽屋に入って行って挨拶して。そしたらアンソニーが四角い箱(ギブス)に手を突っ込んでいるんだよ。で、「なにしているんだ?」って聞くと「お前からそういうことを言われるとは思わなかったよ!」って。アンソニーは、医者からは絶対に止められているんだよ。それを押して来ているのに「どうしたの?」って言われるとは思わなかったって(笑)! あれは笑った。

豊間根 じゃあ、あの時アンソニーは基本的には医者にプレイすることを止められていた?

日高 止められていた。本来ならやっちゃいけなっかたんだよ。しかも雨の中だし。よく来てくれたよ。感謝したもん。それでアンソニーが俺に言ったんだよ。天神山の楽屋でね「マサ、オレたち約束守ったろ?」って。あの台風の中だよ。

RHCP_1 フジロック生みの親、日高正博氏インタビュー 『中編:あのときフジロックで起きたこと』