フジロック生みの親、日高正博氏インタビュー『前編:フジロックができるまで』

各界のキーパーソンによって<フジロック>を語り尽くすコーナー「TALKING ABOUT FUJIROCK」。『富士祭電子瓦版』が立ち上がって以降、大物女優から人気お笑い芸人まで、様々な著名人が登場した本コーナーに、ついに登場するのは……<フジロック>を主催するSMASH(スマッシュ)の代表・日高正博氏! <フジロック>が記念すべき20回目を迎えるということで、「TALKING ABOUT FUJIROCK」特別篇をお届けします!

インタビュアーは、『富士祭電子瓦版』の立ち上げ人であり、<フジロック>オフィシャルショップ・岩盤 / GAN-BANの代表を務める豊間根聡氏。昨年の『瓦版』立ち上げ時から、多くのインタビュー企画やコラム連載を行ってきた私もその場に立ち会うことになり、「これまで話さなかったことを含め、<フジロック>のすべてを話す」とだけ伝えられて向かったのは、日高氏の自宅。<フジロック>の話はもちろん、日本の音楽イベントや音楽フェスの歴史を包括するような話を、右から左へ、過去から未来へ、縦横無尽に日高節を炸裂させ、予定の時間を大幅にオーバーして語り尽くしてくれた(途中、「ビールでも飲まないか?」ということで、乾杯を挟みながら進行!)。その臨場感を含め、3時間に及ぶインタビューの内容をできるだけそのままの形でお伝えするため、本インタビュー企画は3部構成でお届けしたい。

初回となる今回は、<フジロック>開催以前のスマッシュ立ち上げ期にフォーカス。当時感じていた音楽業界へのフラストレーションが<フジロック>を開催するモチベーションになっていったこと、その当時出会ったアーティストの多くが<フジロック>を語る上で欠かせない存在になっていったこと、そして今年ヘッドライナーとして出演が決まっているレッド・ホット・チリ・ペッパーズとの出会いから、今日に至るまでの熱い絆を感じられるエピソードまでを語ってもらった。

INTERVIEW:SMASH 代表・日高正博氏

豊間根

瓦版の人気シリーズで色んな人たちにフジロックを語ってもらう『TALKING ABOUT FUJI ROCK』というコーナーがあって、今回のインタビューはそこで……。

日高

どのくらい人気なの?

豊間根

大人気です!

日高

大人気じゃわかんねーよ。どっかの家具の大売り出しじゃあるまいし。

豊間根

ははは! そのコーナーの特別編で『20thアニバーサリー・フジロック・スペシャルインタビュー』という形で日高さんのインタビューをやります。

日高

で、誰がインタビュアーなの?

豊間根

オレです。

日高

確かにそんなこと言っていたなあ。この前おでん食いながら。

豊間根

そうです、そうです。で、<フジロック>初年度97年って、オレ30だったんです。

日高

は? お前が? 97年の時30歳? って、ことは今年50?

豊間根

来年50です。(瓦版編集部の)津田が昨日30歳になりました。だから津田は97年の時は、10歳なんです。

日高

へー。

豊間根

<フジロック>のお客さんは結局彼みたいな世代になってきているわけです。それで、それこそ97年、どうしてその年に日高さんが<フジロック>をやるっていうアイデアを思いついたのか。97年までの話をまず聞きたい。

日高

ちびちびちび(つまらなそうに愛犬を撫でている)

豊間根

(苦笑)。おでん食いながら話しましたけど、その辺の話をまず聞きたい。それから苗場に行って……。

日高

おっけー、いいよ。

豊間根

では早速。97年に日高さんが<フジロック>をはじめる。スマッシュが<フジロック>をはじめる前に……。

日高

ごめん、なんか灰皿いるだろ? ごめんごめん、俺、人の話ぶち壊すの大好きだから(笑)。

豊間根

はい、知っています(笑)。本当に根本的なところで、<フジロック>のベースとなるアイデアに“音楽を聴く環境”っていうのがあったと思うんです。スマッシュの初期、コンサートプロモーターとして、日高さんの今の仕事に繋がる初期の段階。あの当時、それこそ<フジロック>が97年ですから、ちょうど10年前、85年ぐらいから<フジロック>が始まるまでの10年っていうのは、まだまだコンサートホールでコンサートをするっていう時代でしたよね?

日高

巻けよ! 長い(笑)!

豊間根

(笑)。その頃の日高さんの思い、やっぱり会場は重要だな、環境は重要だなってところをまず喋ってもらいたい。

日高

あのね、まあその事が実は<フジロック>に繋がるんだけれども、今振り返ればね。スマッシュを作る前、32、3年前ぐらいにね、当時は日本のバンドのマネージメントを任されていて。当時一番興味があったのが、やっぱりルースターズ。これには入れこんだよ。もう俺、ロックパイルだと思ったからね。まあ、分かる人には分かるっていう(笑)。ただその他に日本の大きなバンドのマネージメントを任されていて、やりたくなくてもやっていたんだよね。ただあまりにも、どうしても芸能界に触らなきゃいけないってことが、ほんっとに嫌で嫌でしょうがなかった。でまあ、そこを辞めたわけだよ。で、その時自分には二つの道があったんだよ。ちょうど、30過ぎていたなあ、ちょうどか。

豊間根

ちょうど30?

日高

うん。で、二つの道の1つはアフリカに行くことね。なんの目的もなく。アフリカに行くこと、つまりアフリカの音楽ね。当時は寝ても醒めてもアフリカの音楽の事を考えると、血が踊るって言うの? エキサイティングしちゃってさ。やっぱり俺にとってブルースのルーツでもあったし、また全然違うリズムだし、あと文化ね。文化や歴史が大好きなんだよ、俺。音楽には必ずその国の文化や歴史があるわけで。で、やっぱりアフリカっていうのを考えたら、やっぱりかなりデカい国だし。そこに行こうと、ほとんど思っていたんだよ。コンタクトも取っていたしね。

でもね、前からスマッシュという会社は自分のなかで持っていたわけ。まあ会社登録はしてなかったけども。個人の会社ということでやろうと思っていたんだよ。ようするに、それぐらい何をやるかって決まってなかったんだよ(笑)。それでまあ、82年か3年にスマッシュを作ったの。“スマッシュ”っていうのはさ、なんでそんなタイトルにしたかっていうと、ぶち壊したかったんだよね。要するに、それまで俺が10年以上関わった音楽業界、レコード会社から大きな芸能マネージメントまで、全部そこにさ、日本の音楽っていうのはさ、取り込まれているわけ。プレスリーが出てくるじゃない?

豊間根

はい。

日高

60年代。そうしたら日本でも和製プレスリーっていうのが出てくるわけよ。で、日本の歌謡曲を歌わされるわけ。で、その次はなにがあったかって言ったら、ロンドンからどんどんビートルズや色んなバンドが出てきた時にね、日本でもそれをコピーしてたいいバンドがいたわけだよね。で、そういうのをみんなピックアップして、結局日本のすぐれた作曲家に任せるわけだよ。

豊間根

うんうん。

日高

ヒットするわけだよな。それはもう、いっぱいいたよ。例えばタイガース。沢田(研二)さんはさ、やっぱりスゴいから。スゴイ能力のある人。あの中ではね。でもさ、結局みんな歌謡曲みたいな歌なんだよね。それが嫌だった。それで終わっちゃうわけよ。

豊間根

はい。

日高

日本って全部そうなの。海外からきた音楽や文化を取り入れるの、うまいんだよ、すごく。で、レコード会社やマネージメントだけが儲かって、本人達に何も残らないという。まるで演歌歌手の一発屋みたいになっちゃうんだよね。ようするに、そういうコントロールが嫌いだったんだよ。それをぶち壊したいっていうのがあった。だから曲にもあるけども「Smash it up」。バーーン!!! だよね。ま、それを言っても誰も分かってくれなかったけど。それでスマッシュを作ったんだよ。俺の考えはさ、一年の半分は仕事して、後の半分は寝て暮らすっていうね(笑)。

豊間根

なるほど(笑)。

日高

会社を作って、まずはデザインするわけよ。場が最初だ。植木とかをバーーン!! と中に入れて、バーを作ってさ。とにかくリラックスして。で電話だけ置いて、机は一個か二個はあったかな。でもねえ、俺がやっぱり会社を作ると、周りにほんとに色んな人がいてさ、みんな仕事持ってくんのね。「こんな仕事はどう?」「日高君も大変だから」とか言ってさ。ありがたいなとは思ったけど、ほとんど断っていたんだよ。食えないのはどうってことなかった。10代、20代全然食えなかったんだから。

ま、やった仕事もあったんだよ。その時にアメリカのバンドでジョージ・サラグッド&ザ・デストロイヤーズ、知っているかな? すごいカッコイイ白人のブギーバンド。デラウェア出身でさ。ちょうど前の年にアメリカでブレイクしたんだよ。ヒット曲はほとんどなかったんだけど。アメリカでストーンズのツアーの前座に入って。それで色々追っかけていたら、そのバンドがハワイまで来るからやらないかっていう話があってね。まあ、大好きだし、やろう! って。でもね、その時は、大きい会場では出来ないから。新宿のロフトっていう、当時300人くらいしか入らない会場で、一日2セット、三日間。

豊間根

へえー、ベンチャーズみたいですね。

日高

6セット、ソールドアウト。あと、名古屋と京都かな。まあ俺の好きなブルースや好きなロックンロールをやろうと思っていたんだよ。当時から多かったよ、ブルースやソウルやレゲエが好きな人は。で、いろいろやっているうちに、イギリスに行ったんだよね。

豊間根

はい。

日高

ちょうどその時、パンクの後のニューウェーブのシーンでさ。で、やっぱり音楽環境が違うんだよ。アメリカもそうだけど。やっぱり日本だとどうしてもさあ、なんかこうコンサートをやろうとした時に、なんて言うの……厚生会館みたいな、お役所じゃん、みんな。厚生員だからさ。で、その下に置かれているから。

豊間根

新宿厚生年金?

日高

うん。厚生年金。それと渋谷公会堂。これは渋谷区だからさ、レギュレーションっていうか決まりがすごいんだよ。9時に終わらなきゃいけない。

豊間根

はいはいはい。

日高

それから立っちゃいけない、とかさ。ずいぶん喧嘩したもんだよ。ほんとに俺、厚生年金のマネージャーに言った事あるもんね。ここは明治の15年か?って。ようするに明治の時代にさ、西洋に追いつけっていうのがあって、西洋の文化を入れようってクラシックや音楽を入れたんだよね。鹿鳴館って知ってる?

豊間根

知っています。

日高

上流階級がさ、踊って、海外の人たちと接して。別に目的が悪いとは思わないけれども、当時の電力ってさ、そんなに大きくなかったんだよね。

豊間根

ほう。

日高

で、夜9時で終わらなきゃいけなかった。それは、当時電力が乏しかったからだよ。それが一つの大きな原因ね。他にもいろいろ原因があるんだけどさ。それを1980年になってもやっていたんだよ! お役所だからさ。もうとにかく終われと。大げんかしたことあるよ。エルビス・コステロがさ、2、3分超えたところで怒鳴りつけられたからね。だから、これもなんとかしたかった。俺が70年代に色んなコンサート見に行った時に、立ったら必ず「座れ座れ」だからね。そのとき感じたのは、ステージに見えない檻があって、フェンス、檻だよね。動物園だよ。中に居るミュージシャンは動物だよな。

豊間根

ああ、なるほど。

日高

だから触るなと。立って、触るなと。コレって全部封建的な発想だよね。だから、それをなんとかしたいなっていうのはあった。要するに音楽を見る環境を変えたいと。立って踊ることが普通に出来るように、会場をなんとかしないといけない。それがひとつ目ね。

それとふたつ目が、これはレコード会社の考え方が一番大きいんだけど、海外で売れたら来日させるという、これが原則だった。よっぽど売れない限り来日しない。俺はそうじゃないだろ? と思った。日本ではさ、新人が出たらさ、プロモーションでコンサートをやるだろ? と。それと同じだろ? たまたま距離が1万キロあるってだけで。で、レコード会社に言うと「やめてくれ、やめてくれ。来日させないでくれ。」って言うわけ。売れてないから。通常売れているものしかやらないと。レコード会社っていうのは、海外から自分の会社のアーティストが来たら、約束事でツアーの応援資金としてプロモーターに何十万か渡すわけ。で、それが嫌だったんだろうな、俺らが知られていないバンドをやるから。だから俺はレコード会社に「金はいらない」と言ったんだよ。ただ「会場には来てくれ」と。「絶対にレコード会社の悪口は言わないから」と。マネージメントに「全然応援してくれなかった」とは言わないからと(笑)。そういう風に始めたんだよね、おもにイギリスの新人だけど。その延長線が“オアシス”だよ。一番新しいところだと“ザ・ストライプス”か。そういう具合に、日本に来るアーティストのスタイルを変えたかったんだよね。売れなくたって、良い音楽・良いアーティストは来日させる。だって全責任は俺らが負うんだから。お金も全部。だってチケットが売れなかったら俺らの赤字なんだから。分かっているよって。でもそれをしないとね、売れているアーティストを日本の招聘会社がお金を積んで、積んで、積んで……ただのオークションみたいになっちゃうよね。俺はそんなの参加もしたくないし、参加した事ないから。

豊間根

確かに僕が若い頃、やっぱり大物じゃないと来ないっていう時代ではありました。

日高

ほとんど観に行ったけどね、俺。イギリスで70年代に、金払って。やっぱり腹立ったよね。セキュリティが来て押さえつけられると。こっちがさ、捕われているみたいで。それがスマッシュをやる大きな原因だったよ。喧嘩だよね、はっきり言って。業界に喧嘩売っているようなもんだよ。大好きだもん。あ、殴らない喧嘩よ(笑)。

豊間根

はい(笑)。

日高

それがスマッシュの初期だね。

豊間根

僕が知っている初期の伝説として(アインシュテュルツェンデ・)ノイバウテンが85年に来ます。で、「廃墟求む」と新聞広告を出しましたよね?さっきの話と繋げると、やっぱり環境、このバンドを廃墟で見せたいっていう……。

日高

違う! あれはただのギャグ!ジョークだよ!

豊間根

ギャグ?! えーーー!?!? 「廃墟求む スマッシュ」あとは電話番号。バンド名も公演日程も書いてないっていう……。

日高

高いんだよ! 朝日新聞が(笑)。たった一行半ぐらいで何十万とするんだよ。ただねえ、家で酒飲んでいてピン! と来たんだよ。あの時日本でね、ノイバウテンはレコードが千枚ぐらい売れていた。千枚ぐらい売れるってことは、潜在的にお客さんがあと千人ぐらいはいると思ったんだよ。これはまともな宣伝するよりも、潜在的なお客さんを含めて二千人の彼らにPRしようと思ったの。ギャグだよね。俺ら不動産屋じゃないんだよ(笑)? 今考えても最高だと思うね。考えついた俺は天才かと思ったね(笑)。

写真:豊間根氏の私物「FOOL’S MATE 昭和60年4月25日発行号」切抜きより