豊間根 映像にも残っていますけど、彼らのステージ中、日高さんはステージ袖にいた?
日高 うん、いたよ。でも最もステージ上の印象が強いのはレイジの時だったよね。レイジが出る前に、スタッフたちとミーティングをやったんだよ。「相当やばい」と。客の騒ぎ方が半端じゃないと。フェスが始まった時から、もう衰えるどころかゴンゴンいっちゃっている。「これでレイジが出たらどうなるんだろう?」っていうのがスタッフの心配だった。で、ミーティングして。要するにどうするかというと、レイジの後にザ・イエロー・モンキーが入っていたんだよ。俺の昔からの友達、ロッキング・オンの渋谷(陽一)君がすごく心配してくれてさ。今、すごく売れているイエロー・モンキーを出せば、お客さんも絶対来るからって。ものすごい彼の思いが伝わるんだよ。でも俺、当時知らなかったのね、彼らのことを。で、ビデオを見たの。それで、これは「すれすれだな」って思って、マネージャーに言ったんだよ。「エッジの上、ギリギリですね」って。「どういう意味ですか?」って聞くから「エッジの内側、バンドの原点であるロックに留まるか、もしくは“ショービズ”の世界に行っちゃうか。エッジの上、ギリギリですね」って話したんだ。マネージャーもよくわかってくれて「そうかもしれないですね、うちのバンドは」と。でも「やりたい。なんとか出たい」と。それまで日本のバンドは断っていたんだよ。でも出てもらうことにした。
豊間根 そうだったんですね。
日高 レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、ザ・イエロー・モンキー、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンっていう並び。普通だったらチリ・ペッパーズの前にレイジだよね。でもサンドウィッチにしようと。
ただ(フジロックに来た)イエロー・モンキーのお客さんがすごかったんだよ。あの雨の中、レインコートも着てない、ハイヒールかサンダルで、朝一番に来て、ずっとあの雨の中、最前列に何百人もいたんだよ。俺、行って話したんだよ、その人たちと。「イエロー・モンキーが出るのはまだまだ後になるから一回休みなさい」って。ノースリーブにスカートとハイヒールの女の子たち。まあ心配するよな? だから「一回ここを出なさい」って言ったんだよ。「彼らが出るのはまだ2時間も3時間も後です」って。そしたら「だって、こんなに間近で見れるチャンスはありません」って。それでも危険だから「一回出なさい」って言った。すると、ある女の子が言ったんだよ「だったら約束してください。イエロー・モンキーが出る時に、私たちがこの場所に帰ってこられるようにしてくれるって約束してください」ってさ。そんな約束出来るわけない! で、説得は諦めたんだけど、やっぱりずっと最前列に残っていたんだよ。そしたらフー・ファイターズが始まって。もう悲惨だったんだよ、その子たち。泣いているんだよ、モッシュに押されて。全然ステージも見てない。押されて泣きながら、ステージも見ずに、最前列にただしがみついている。やっているバンドにも迷惑だよね?
豊間根 うーん……。
日高 それで俺が思いついたわけ。イエロー・モンキーのお客さんのために「順番を変えちゃおう」って。そしたらお客さんも安全だって。お客さんのことを考えたよね。困ったな、っていうお客さんだったからさ。で、イエロー・モンキーに話した。お客さんの体調も心配だから順番を入れ変えたいっていう話をした。メンバーは「うーん」って考えたと思うんだよね。それはそうだよね、バンドは出る場所が大事だからね。俺だってバンドの気持ちは分かるんだよ。そりゃ、入れ替えたくはないなって。でもまあ、やっぱみんな良い人達だからね、「わかった」って言ってくれたんだよ。
で、次はレイジだろ。レイジのマネージャーとボディーガード、一番大事なセキュリティーに話した。そうしたら彼らは「いや、反対だ」と。「俺たちは構わないけど、でも全体のことを考えて」と。「イエロー・モンキーのことは分かるけど、イエロー・モンキーが真ん中にいることで、お客さん的にも音楽的にもソフトクッションになるんじゃないかな」と。まあ、それは確かに当たっているんだよ。「よしわかった。もう順番を変えるのはやめよう」と。「変えません、予定通り行きます」って、またイエロー・モンキーに話したんだ。
豊間根 ステージからの映像がDVDにも残っていますが、レイジのライブは、大雨の中の、まさに伝説のライブとなったわけですが。
日高 レイジがステージに上がる前にミーティングをしたんだよ。ギターのトム・モレロに話して。アメリカのバンドだから、「バンドのコントロールは俺が決める」って言って絶対に譲らないんだ。だからトムと話して「俺がステージの袖に立つから、お互いに時々見合おう。アイコンタクトで決めよう」って。「俺がウィンクしたらやめよう、演奏ストップだ」って。俺とトムが決めたらセキュリティーに告げる。そうしたら演奏ストップだと。そう決めてライブをスタートしたんだけど、15分経ったら、えらいもんでね、日本のお客さん、慣れているんだよ。要するに、ここまでに俺たちがやってきた成果が出た。モッシュについても“スタンディング・ギグ”のマナーが出来ているんだよ。モッシュから出たいお客さんは、頭上に上がればモッシュ・サーフィン状態でお客さんがどんどん前に送ってあげて、最前列のセキュリティーが引き取ってくれる。モッシュが潰れれば、お客さん同士で引き上げている。苦しんでいるお客さんがいたら周りの人たちがセキュリティーにアピールして引き上げてもらう。最前列のセキュリティーのほとんどは、雇っているアメリカのセキュリティーで、プロだから。この光景をステージの上から15分観ていて、これはもう大丈夫だと。それでステージから離れたんだよ。あとはもうなんでも対応できるって。それで本部に帰ったのは覚えているよね。
photo by Yuki Kuroyanagi
豊間根 その後、2日目のキャンセルを決断する時の状況を改めて話してください。
日高 まあ、その日の夜は全てがネガティブだよね。ステージが終わった後のミーティングでは「もう出来ない」という報告ばかり。そりゃ、あのステージ見たら出来るわけないよね。でも俺は、オーガナイザーとして最善を尽くしたかった。だから「今から新しい土を持ってきて埋められるか?」とか、「渋滞の原因になった車をいつ排除できるか?」とか、色んなことを検討した。ただやっぱり一番心配だったのはさ、台風で疲れ果てたお客さんのうち、2万人は残るわけよ。そこにあくる日、また別の元気な1万人がやって来る。想像出来るよね、その後どうなるか。たしか深夜3時くらいだったかな。「みんなが言いたいことは分かった。でも俺が言いたいことも分かったよな?未練を残して言っているんじゃない。もう少しベストを尽くせないか考えろ」って言って、俺は机の下に潜り込んで、「寝る!」って言って、床の上で寝たんだよ。
それまでのことでも、俺が覚えているのは、本部の上、ヘッドクォーターの上がアーティストの楽屋や控え室だったの。そこにいる全員を追い返したのを覚えているよ。土曜日の夕方、ベックだとか、みんな来ていたのよ。でも「全員出てくれ」って「ホテルに帰れ」って。俺は、お客さんの休める場所を少しでも確保したかったからね。戦場における野戦病棟みたいだよな。でも、みんな協力してくれてね。本当によく協力してくれたよ、アメリかの連中も。あとね、スポンサーの連中。持って来たTシャツを無料でお客さんに配ってくれて。みんな協力してくれた。
まあそれで、4時過ぎか。結局1時間ぐらい寝てたんだんけど、その間は何にも聞こえなかった。疲れ果てていたんだな。1時間ほど寝て、起きたんだよ。もう答えは分かっているんだけど、「どうなった?」ってみんなに聞いた。そうしたら「もう無理です」と。で、俺は「よし分かった。キャンセルを出すとしたら何時頃までに出さなきゃいけない?」って聞いた。そうしたら、新宿から始発が出る前までには、ってことだったから、朝5時ぐらいかな……「よし分かった」とキャンセルを決めた。その時にさ、ある人が手を上げて「やりたいのに出来ない、どうしても状況的に出来ないからやめるんですよね?」って聞いてきたんだよ。あとで分かったんだけど、その人、保険会社の人だったんだ。彼はさ、感動していたんだよ。世の中ってさ、保険をかけていたら簡単にポーンってやめちゃうんだよ。特にあれだけの、何億っていう保険は類を見ないわけよ。これだけ主催者が粘って交渉して、どうしても出来ないから最終的にキャンセルを決断した経緯を全部見ていたんだよ、彼は。保険の担当の人がそこにいて、全部理解してくれた。長時間にわたるミーティングを全部聞いているんだから。
photo by Mitch Ikeda
豊間根 ……すごい裏側ですね。
日高うん。でも台風のあと、天気良かったんだよなあ。そしたらみんなさ、みんなっていうのは、主にベックね。麓のホテルに泊まっていたんだよ。それで遊園地のローラーコースターに乗って遊んでいたんだよ。「わーい!」とかやっていたんで「このばかやろー!」って(笑)。
でもね、月曜日からが本当にすごかったんだ。会社から携帯に連絡が入ってね。「対応できない」って。ネガティブな問い合わせや、客からの嫌がらせがひっきりなしにかかってくるんだ。新聞にも書かれたし。ほら見たことかって。なにか新しいことをして失敗したら、それは言われるんだよ。スタッフが「どうしよう?」って聞くから「ほっとけ! そんなもん、なんとでも書くんだから」って。「電話はどうするの?」って聞くから「回線引っこ抜いちゃえ!」って。そういうことがあったんだよ。
豊間根 はい、97年終わり。98年は日高さん、どこのインタビューでも「緊急非難的」だと。やる場所がないから東京でやったと言っていましたよね。
日高 うん。まあ、実はね、まだそれでも交渉していたんだよね。
豊間根 天神山と、ですか?
日高 1回目が終わった11月、12月、翌年98年の1月までは、天神山も「大丈夫です」って言っていたんだよ。覚えている。今でもあそこに管轄があるんだよね。環境庁かな。あそこはさ、環境庁の中で特Aなのよ、伊豆箱根っていうのは。要するに、枝一本折っちゃいけない場所なんだよ。だから俺は、何度も何度も、「大丈夫なの?」って確認していた。で、1月の終わりに突然電話があって、環境庁が「うん」と言わないって。で、飛んで行ったんだよ、ジープに乗って。雪の中だったかな。で、聞いたんだよ、「なんで去年出来て今年は出来ないの?」って。そうしたら「実は、去年は書類に判を押してなかった」って言うんだよ(笑)! 「去年やっぱりいろんなメディアに載っちゃったから今年はちゃんとしなきゃいけない」って。俺が「お願いしますよ」って言ったら、その役人が「私、4月に異動なんです!」だってさ(笑)。「じゃあ、出来ないじゃん」って。それが98年1月の終わりだよ。
豊間根 それで豊洲に?
日高 実はその1月に、他の件で豊洲を見に行っているんだよ。でもさ、俺はそれでも東京でやるのは反対だったから。
河口湖の環境庁の施設を出たあと、俺は頭にきていて。普通は東京に帰るんだけど、逆の西の方に行っちゃったんだよ。それで、今<朝霧JAM>をやっている朝霧アリーナの裏に抜けた。県道の裏道に近道があって、そこに偶然入って。そこで広い牧場を見つけたんだよ。<グラストンバリー>に匹敵するような広い牧場。その時は、一面が大雪で地面は見えないんだけど、だいたい想像出来るんだよね。牛を飼っている広い牧場。俺は「ここだ!」と思って、2mくらいの柵を乗り越えて、中にトコトコ歩いて行っちゃった。事務所があったから、トントンってノックして。中にはストーブがあって、猫が一匹いて、男の人がいた。で、「ここでやりたいんだけど」って話した。俺はこうやって、人も場所も開拓するんだよ。で、向こうからしたら「なんだ、この人は!?」と。1、2時間話し続けていたら、その人が「面白いこと言いますね。でもここは自分らのものじゃないんです。オーナーが7、8人集まって経営しているので、自分らは何も言えないんです。朝霧地区の役場にベースを弾く人がいるので、その人はそういうイベントが結構好きだと思いますよ」って教えてくれた。で、俺は「わかりました」って言って、その人に会いに行った。その人は乗ってくれたんだよ。でも話していくうちに全然ダメで。今でも朝霧は反対派が多いんだけどさ。土地の環境、住んでいる方の反対があって、当事者も反対だよ。もう富士山の麓では出来ないって。
豊間根 そこから、判断すべきデッドラインが来て、仕方なく東京で?
日高 だってもう交渉する場所がないんだから。で、豊洲だよ。あそこって考えた時に、東京の夏は相当暑いわけよ。だからね、何を言ったかというと「スイミングプールをつくれ」だの「テントを張れ」だとかね。用心したのは、とにかくお客さんの体調管理。日差しに注意しようと。それだけだよ。
豊間根 98年もあれだけのすごいラインナップが揃って、お客さんも入って……。
日高 ステージから見る景色が凄かったな。夜、レインボーブリッジの上に飛行機が飛んで、俺がミュージシャンだったら「最高だよな、これ」って思った。
終わった後にプライマル・スクリームが、「マサ、ここだよ! こんな景色は世界にないよ!」って言ってきた。だから俺は「何言ってんだ!? お前、富士山の麓に来たことないだろう?」って言ってやったんだ。
photo by Mitch Ikeda
中編では、苗場に移る前の<フジロック>黎明期を赤裸々に語ってくれましたが、次回の後編では、苗場に移ることになった裏側、そしていざ苗場に移ってから現在にいたるまで、「フジロック×苗場」で起きたことのすべてを当事者目線で語ってくれました。さらに20回目に対する想い、そして現在考えている今年の構想まで、どこにも語られていない<フジロック>の裏側は、4月22日公開予定の、後編にて!
Interviewd by Satoshi Toyomane
Text by Shotaro Tsuda
photo by 横山マサト
INFORMATION
『SMASH go round 20th Anniversary』 FUJI ROCK FESTIVAL’16
新潟県 湯沢町 苗場スキー場