各界のキーパーソンたちが思いのままに<フジロック>を語り尽くす「TALKING ABOUT FUJIROCK」。今回登場するのは、HYSTERIC GLAMOUR(ヒステリックグラマー)のクリエイティヴ・ディレクター、北村信彦さん。

HYSTERIC GLAMOURといえば、1960〜80年代のロックやアート、ポルノグラフィといったポップカルチャーのエッセンスを注入した、オリジナリティ溢れるドメスティックブランドだ。北村さんによると原体験として音楽からの影響は大きく、<フジロック>にも出演している“あるアーティスト”がいなければ、今日の自分自身は存在していないという。憧れの人物と出会えた苗場での夢のような体験を踏まえて、自身にとっての<フジロック>の意義を語ってくれた。

Interview:北村信彦

hys_001 憧れの人との仕事は苗場での出会いがきっかけーーHYSTERIC GLAMOUR北村信彦が語るフジロックの意義

直接宛てたパティ・スミスへの手紙。

━━北村さんがはじめて<フジロック>を体験したのはいつですか?

北村 2001年です。パティ・スミスとニール・ヤングが来日した年です。某雑誌の広告でフォトシューティングをやったんですよ。俳優の永瀬正敏くんをカメラマンに起用して、<フジロック>に来客した人達にウチの洋服を着てもらうという。モデルになる女の子を見つけるのが大変だったので、三日間かなり歩きましたね。ライブを観る余裕はほとんどなかった。

━━仕事とはいえ音楽好きとしては悩ましいところですね。

北村 忘れられないのは、パティ・スミスが<フジロック>に2回目に出た2002年ですね。どうしても僕はパティに会いたくて、当時彼女が所属していたレコード会社の方にパティへの手紙を託したんです。自分が中学生のときにラジオではじめて聴いたパティの曲“ピス・ファクトリー”に衝撃を受けて、ニューヨークパンクを入口に、パティのジャケットを撮っていたロバート・メープルソープや、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドとアンディ・ウォーホルの関係を知ることで、音楽とアートが絡んでいることを教えてもらった。そこを軸に掘り下げたことで、ミュージシャンたちが着ていた洋服にも影響を受けてファッションを勉強し始めたんです。

━━なるほど。パティ・スミスは音楽だけでなく、ファッションに興味を広げるきっかけにもなっているんですね。

北村 僕がブランドを立ち上げるときにもパティから学んだことが役立っていて。ブランドを始めて、いろいろなプレッシャーから荒れた時期があったんですよ。そのときにパティが何年か振りにリリースした“PEOPLE HAVE THE POWER”が収録されている『ドリーム・オブ・ライフ』というアルバムにすごく救われたんですね。あなたがいてくれて、今の自分がある。そんな内容の手紙を書いて、レコード会社の方に渡したんです。前日まで何の返答もなかったけど、<フジロック>初日の午前中にレコード会社の方が「パティが会ってくれると言っていますよ」と連絡をくれて。パティにはいくつかのインタビューのオファーが届いていたけど、一切受けていなかったらしいんですよ。でも、僕には会うと言ってくれたらしい。何が何だかわからない気持ちでしたが本当に嬉しくて。

━━パティ・スミスと会ったシチュエーションを憶えていますか?

北村 たしか昼ぐらいだったかな。ホスピタリティエリアに呼ばれて、パティと話したんです。手紙に書いた内容を直接伝えて、過去に作った彼女をイメージしてコラージュしたTシャツをプレゼントしたくて、その日のために版を作り直して刷って持って行ったんです。それと、ウチは洋服以外に森山大道さんをはじめ日本の現代写真家の写真集を出版していて、幾つかの写真集を見せたんですよ。そしたら、パティが「自分でものづくりをしているのに、他のクリエイターをサポートしているのは素晴らしいことだわ」と褒めてくれて。わざわざプレゼントしたTシャツに着替えて、ステージ用のブーツも履いてきてくれて、写真も撮っていいって言ってくれたんです。

━━たしか、その年のパティ・スミスはフィールド・オブ・ヘブンとレッド・マーキー以外に、タイムテーブルにはなかったポエトリーリーディングをジプシー・アバロンでやっていますよね。

北村 そうです。「観にいらっしゃい」と誘ってくれて。突然決まったことだったから最初は20〜30人くらいのお客さんだったのに、気づいたら何百人もの人だかりが出来ていましたね。詩の朗読が終わった後のMCで、「本当はやるつもりはなかったけど、今日ある人に会って初心を思い出したわ」と言って、 “ピス・ファクトリー”をやったんですよ。

━━その人、間違いなく北村さんですよね。

北村 鳥肌が立ちましたよね。翌日のフィールド・オブ・ヘブンのライブはパティが黄金に輝くマリア像のように見えて、「パンクの女王」と呼ばれているけど、女性ヴォーカリストとしての凄みを実感できるライブだった。最終日のレッド・マーキーは身動きが取れないほどお客さんが入っていて、初期のセットリストでライブをやったんですよ。そのときのパティは銀色に輝くジーザスだった。終盤は目隠しをして叫んだり、床を這い回ってギターの弦を切ったり、ものすごく本能的なライブでした。“PEOPLE HAVE THE POWER”で会場は大合唱。僕が<フジロック>で観たベストショーはあのレッド・マーキーのパティ・スミスです。

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━━先ほど写真集の話がありましたけど、HYSTERIC GLAMOURはパティ・スミスの写真集『CROSS SECTION』も出版していますよね。そこにはこの<フジロック>での出会いが深く関わっていますよね

北村 ええ。レッド・マーキーのライブの後、パティに楽屋に呼ばれたんです。パティのバンドもクルー達もスタッフも楽屋には入れなかったので、僕も楽屋の前をうろついていたら、楽屋からパティが手招きしたんです。誰か他のスタッフが呼ばれているんだろうと思ったら僕でした(笑)。恐る恐る楽屋に入ると、楽屋にはパティとレニー・ケイだけでした。座るように椅子を勧められたけど、さっきの神がかったライブの後だったから僕は本能的に彼女の前に跪きました。パティから「私もポラロイドの写真を撮り始めていて、まとまったらあなたに見せたい。もしよかったら、私の写真集を作ってくれる?」と相談されたんです。その瞬間は地に足が付いていなかったですね。断る理由はないですし、中学生に戻った気分で「イエス」と答えて。それから1年後に本当にパティから写真が送られてきて、写真集を作らせてもらいました。ちょうど渋谷にパルコミュージアムがオープンしたタイミングで、1回目のこけら落としがアンディ・ウォーホルで、2回目がパティのドローイングと9.11をモチーフにした最新作の展示だったんですよ。会場の余ったスペースでポラロイド展をやろうということになって、それに合わせて写真集を作りました。「構成したら一度チェックをお願いします」と言ったら、「あなたに任せるわ」と信頼してくれて、逆にプレッシャーが掛かりましたね(笑)。個展の前にパティは全国ツアーを回って、終わった後にパルコのオープニングだったんですよ。ツアーが終わって、ホテルの喫茶店で完成品を見せたとき、僕はすごく緊張していたんですが、彼女が「クリスマスと誕生日が一緒に来たみたい!」と喜んでくれて、ようやく肩の荷が降りました。あれ以来、あのとき以上に緊張することはありませんね(笑)。

━━すべての出来事が、<フジロック>がなければ体験できなかったと言っても過言ではないと思います。

北村 本当にそう思う。パティは2001年の<フジロック>でグリーン・ステージを経験していますけど、2回目の<フジロック>でポエトリーリーディングをしたときに、「私たちは60年代後半から聖地を探して、いろいろなところでロックフェスをやってきた」とMCで話し始めたんです。その結果、腐るほどのゴミとクレームの山が残ってしまったけど、<フジロック>は違う。一人ひとりが携帯灰皿を持って、すべてのステージがスケジュール通りに行われて、喧嘩も犯罪も起きない。大自然の中で三日間、ミュージシャンと参加者が本当に対等で過ごせるのは、このフェスティバルがはじめてだと。パティは<フジロック>をリスペクトしているんですよね。

━━僕も、協力して分かち合う<フジロック>の雰囲気は、日本人だから出来る業なのかなと思います

北村 あのオーガナイズの仕方やお客さんのマナーはすごくピースフルですよね。それがパティにも伝わっているのは僕も嬉しい。業界の人からすれば、彼女は気難しいアンタッチャブルな人かもしれないけど、<フジロック>の中での出会いだから心を開いてくれたのかもしれない。僕もパティの言葉から影響を受けて、<フジロック>に関わるスタッフの人たちにものすごく感謝しています。そう思えるようになってから、バンドとか誰が出ようと関係ないやと思ってしまう(笑)。とにかく、その年の<フジロック>に行かなかったことを後悔するだろうなって。あれだけ自由な環境で、天候は変わりやすくて気温差も激しいのに秩序が守られているのは、本当に素晴らしいと思いますよ。

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HYSTERIC GLAMOURは音楽なしでは語れない

━━ファッションについて聞いていきたいのですが、日本人の特徴が表れている<フジロック>では、お客さんのファッションを見て思うことはありますか?

北村 最初の頃の<フジロック>はレインウェアーが黒かカーキ色の洋服ばかりでしたけど、それが年々と個性的になってきた。特に女の子は山ガールみたいな言葉が出てきて、色使いがカラフルに変わりましたし、それに男も続くようにカラフルになりましたよね。

━━北村さんはどんな装備で<フジロック>を過ごしているんですか?

北村 靴はダナーライトのような登山用ブーツ、靴下は速乾性のあるタイプ、足元は登山系のアイテムですね。その他は膝が隠れるくらいの丈のパンツに、Tシャツないしは薄手の長袖かな。アウターはゴアテックス素材のものだけど、雨が降ってもハードシェルではなくてソフトシェルのアウターで十分に凌げますよ。

━━HYSTERIC GLAMOURは様々なカルチャーからの影響を感じさせますが、やはり音楽の影響は一番大きいのでしょうか。

北村 音楽なしでは語れないですね。僕は元々はファッションデザイナーになりたかったわけではないんですよ。高校を卒業したら美容師になろうとしていたんです。中学時代の友人が高校中退後に美容学校に入学して、野村真一さんというヘアメイクアーティストが自分のサロン「アトリエシン」を作るのにその友人が関わっていて、野村さんは有名な人だったから、芸能人とかミュージシャンとかのスタジオ撮影を沢山経験しているわけですよ。友人が「この前、誰々の現場だった」と言うものだから、「美容師はミュージシャンと接点があるんだ」と知って、美容学校に行こうと思って美容学校に入学願書を書いていたんです。そしたら同じ頃に東京モード学園が開校して、何の学校かわからなかったけど、とにかく新宿センタービル43階という美容学校より西新宿のレコード屋が近いという立地が魅力的で、レコードショップに行くついでに見に行ったんですよ。そこでまだ入学できることを教えてもらって、後になってからファッションの学校だということを知りました(笑)。

━━モードというファッションとリンクする言葉が付く学校だから、必然的にファッションデザイナーを志す人が多いですよね。

北村 そうですね。僕は洋服に興味はあったけど、やっぱりそれ以上に好きだったのは、当時のパティ・スミスが着ていたTシャツやローリングストーンズの格好とか、ミュージシャンのファッションなんですよ。だから、デザイナーが誰ということにはまったく興味がなくて。

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━━現代の洋服は立体的なものだったり、かたや海外の都市から影響を受けたコレクションが増えたり、北村さんのようにカルチャーの影響を感じさせる洋服づくりは少なくなったように感じる部分もあります。

北村 たしかにインテリな感覚がありますね。僕はそれよりも音楽やポルノグラフィック、B級映画とか、いわゆるポップカルチャーやサブカルチャーが大好きで、メジャーなものよりもインディペンデントなものがタイプだった。僕がはじめて海外に行ったときのことですけど、分厚いディオールの写真集と『THE ART OF ROCK』という本を二冊買って、帰りの機内で読んでいたんですね。ディオールの本を読んでいると、川久保玲さんや山本耀司さんと同じような表現をすでに、ディオールはアーヴィング・ペン(アメリカの写真家)と実現していた。「あの人たちも海外のブランドから影響を受けているんだ。でも、俺はこっちじゃないな」と気付いたことで、ビジュアルでロックの歴史を表現する『THE ART OF ROCK』のようなものが好きだとわかったんです。そこから、当時好きだったミリタリーウェアと古着、自分が好きな音楽とポルノグラフィックを混ぜて作ったものがHYSTERIC GLAMOURですね。

━━HYSTERIC GLAMOURはものづくりが一貫としていますよね。

北村 当時海外からSTUSSYとかSUPREMEとかストリート系のファッションブランドが東京に進出してきて、それまでのDCブームの終わりの方に僕のブランドが入る形で、当時21、22歳だったけど、有り難いことに音楽好きな同世代の人たちから支持を受けた。歴代の人たちに違和感を感じていたことは、UNDERCOVERのジョニオくん(高橋盾)とか自分よりも年下のデザイナーが出てきたことで、自分は間違っていなかったんだなと証明できたという感じもありますね。そういったことを踏まえても、このブランドをやっていなければ、僕はパティ・スミスには会えなかったと思う。だから、<フジロック>は出会いの場として特別な場所でもあるわけです。

━━フジロックは北村さんにとって昔のご自身を思い出すだけでなく、ものづくりの新たなエネルギーをもらえる場所でもあると思います。今年のフジロックでは、どのように過ごす予定ですか?

北村 今年もジョニオくんたちと行く予定ですけど、キャンドル・ジュンくんがプロデュースしているピラミッド・ガーデンに長く居たいですね。朝イチからハワイアンが流れているのがホテルの部屋に聴こえてきて、気になって去年の最終日に行ってみたら最高に気持ちよかったんですよ。できれば、あのエリアにテントを張ってベースを作りたい。でも、もう僕も53歳だから、一応ホテルを取っておきますけどね(笑)。

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text&interview by 加藤将太
photo by 横山マサト

北村信彦(Nobuhiko KITAMURA)

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1962年東京生まれ。東京モード学園を卒業した1984年、(株)オゾンコミュニティに入社。同年、21歳でHYSTERIC GLAMOURをスタート。10代半ばから猛烈にアディクトするロックミュージックを礎に、ブランド設立当初ロックとファッションの融合をいち早く見出したコレクションを提案。ソニック・ユースやプライマル・スクリーム、パティ・スミス、コートニー・ラブをはじめとして数多なアーティストたちと親交を深める。一方、ポルノグラフィティやコンテンポラリーアートなどにも傾倒、その感性はHYSTERIC GLAMOURの代名詞の1つでもあるTシャツでも表現している。また、テリー・リチャードソンや森山大道、荒木経惟をはじめとする写真作家の作品集を自主制作・出版するなど、現代写真界にも深く携わる。

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