<フジロック>と同じ97年に創刊され、2011年にその終止符が打たれるまでは国内外を問わずポップ・ミュージックのファンの間では絶大な人気を誇った音楽雑誌『スヌーザー』の名物編集長、タナソーこと、田中宗一郎が登場! フジロックに並々ならぬ思いがある彼が、フジロックを初年度から振り返りつつ、音楽シーンにおける”フジロックの意義”を語ってくれました。<フジロック>初期を語ってくれた前編に引き続き、後編ではここ10年〜現在の<フジロック>までを独自の視点で語り尽くしてくれました!
Interview:田中宗一郎(ザ・サイン・マガジン・ドットコム)
前回は00年代前半までの<フジロック>を語ってもらいましたが、00年代後半あたりからの<フジロック>はいかがですか?
すぐに思い出せるのは、2007年ですね。初日のヘッドライナーがキュアーだった年。彼ら、僕の青春のバンドなんですよ。83年の初来日公演もなけなしのお金をはたいて観に行ったし、92年に初めて海外でインタヴューしたバンドも彼ら。で、この時期のキュアーはコーンやスリップノットのプロデューサーを迎えたアルバムの大成功もあって、一気に若い世代のファンを獲得して、欧米では10年振りにシーンの最前線に戻ってきた。なので、どうしても観たかったんですよね。でも直前まで仕事が終わらなくて、新幹線で越後湯沢を経由してるんじゃ、スタートに間に合わなくなっちゃった。それで埼玉の大宮で新幹線を降りて、そこからタクシーで苗場まで行ったんです。10万弱かかりましたけど(笑)。ところが、グリーンに着いたら、とても満杯のフィールドというわけじゃなかった。事前に予想はついてはいたんだけど、海外での状況が日本にはうまく伝わってなかったんですね。でも、後から考えてみると、これって、ちょっとした象徴的な出来事でもあって。と言うのも、ここ5年くらいで、世界的な音楽マーケットの中で日本って完全に孤立しちゃったんですよ。欧米だけじゃなく、アジアからも。興業に関しては完全にそう。実際、欧米のバンドが日本に来るのは、もはや大半が他のアジア諸国やオーストラリアに来るついでなんです。だから、今にして思えば、ちょうどこの頃が、アジアの中でも日本だけが欧米中心のポップ・シーンから取り残され始めた、最初の時代の分岐点だった気がしますね。
2008年は、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインがヘッドライナーでした。この辺りのチョイスに関しては、どうですか?
91年の初来日公演に足を運んだ人間からすると感慨深いものがありました。当時は『ラヴレス』の曲が生演奏では再現出来なくて、大半の音がADATから鳴っているっていうひどい代物だったので、フィールドを埋めた満杯のオーディエンスを眺めながら、テクノロジーの進歩って凄いな、伝説ってこうして作られるんだなって(笑)。ちょっと意地悪ですね、すいません。今、世界一のフェスって、その内容と規模から考えると、やっぱり<コーチェラ>だと思うんですけど、彼らって自分たちがダサいと思ったバンドは絶対に出さない。そこは徹底してる。そういう厳しい目利きもあれば、同時にビジネス的な才覚もあって。この時期のマイブラみたいに活動休止していたバンドを自ら再結成させて、再評価の波を演出したりだとか、そういう術に実に長けてるんですね。この年の<フジロック>はうまくその波に乗った。そこは見事だったと思います。
田中さん自身は、ここまでずっと三日間、<フジロック>皆勤賞ですか?
09年だけは仕事に追われて行けなかったのかな? それまではメディア人としての使命感もあったし、1オーディエンスとしてもどこよりも最高の場所だと感じていたから、苗場には必ず四日間いる。それが夏の恒例行事だったんですね。でも、この時期は、そうした<フジロック>の魅力や、その元になった思想、アイデアを伝えるという作業を10年以上も続けてきて、どこか一度やり切ったと感じてたのかもしれない。実はそういう作業って、より新しい世代のためにずっと繰り返しやり続けなきゃいけないことなんですけど、この瓦版みたいに。ただこの時期は、誰もがどこか安心してたんじゃないかな。僕らメディアもそうだし、主催者も。オーディエンスにしても、<フジロック>に行けば、間違いなく何かしらの楽しみを十二分に受け取れることが出来る、そういう安心をごく当たり前のように感じてた時期だと思います。
2010年、トム・ヨークの初出演の年は行きましたか?
ええ。でも、アトムス・フォー・ピースにはそんなに興奮しなかったんですよ。本家レディオヘッドと比べてしまう自分が良くないって話だとは思うんですけど(笑)。それと、自分の興味の矛先が新世代のバンド、特にブルックリンを中心としたUSインディに向かっていた時期だったのもあるんでしょうね。実際、彼らの裏でホワイト・ステージで演ってたLCDサウンドシステムの方が桁違いに凄かった。あと、この年はヴァンパイア・ウィークエンドも最高でした。ただスロット的に真っ昼間だったこともあって、グリーンはさすがに満杯というわけにはいかなかった。でも、当時のヴァンパイア・ウィークエンドやMGMTって、もはや海外なら大スターですよね。本国では着々といろんな世代交代が進んでいた時期です。もちろん、この年のMGMTが出演したホワイトも入場規制にはなったんですけど。ただ、それまでの<フジロック>が世界の中心というか、欧米圏だけじゃないバンドも含めて、どんなフェスよりも世界中のあらゆる最高の音楽を発見することが出来る唯一無二の場所だったとすれば、その圧倒的な覇権にどこか陰りが感じられるようになった時期だったかもしれない。日本全体が文化的な鎖国状態というか、ガラパゴス化が一気に顕在化した時期とも重なるんですけど。
翌年2011年は『スヌーザー』が廃刊になった年ですが。
実はこの年から<フジ>には行ってないんですよ。『スヌーザー』も終わらせて、メディア人としての役割も一度は終えたという気持ちがあったのかもしれない。実際、<フジロック>の意義だとか、楽しみ方についてもかなり世間一般に浸透したという実感もあったし、結果的にもこの年のレディオヘッドやストーン・ローゼスが出演した<フジ>は大盛況だったわけじゃないですか。実りの季節でもあった。ただ個人的には、今までやってきたことと少し距離を取りたかった時期で、音楽を所有するってこと自体にもどこか馬鹿馬鹿しさを感じ出したりもしていました。それで自宅やオフィスにあった5万枚のCD、1万枚近いレコードの大半を売り払ったり。でも、その後のたった数年の間に、まさかこんなにも日本の音楽マーケットだけが世界的に孤立するようなことになるとはさすがに思ってなかった。昨年のアーケード・ファイアなんて、この年と同じか、それ以上に人が集まってもおかしくないはずなんだけど、そうはならなかった。だから、レディオヘッドもストーン・ローゼスも苗場では観てないんですよ。
でも、こうやってフジロックメディアに出て、話してくれているということは、何か話しておきたいことがあるということですよね。
やっぱり<フジ>というのは日本にとってかけがいのない財産だと思うんです。わざと大げさな言い方をすると、憲法第9条の次に大事なんじゃないか?(笑)。実際、自分が黎明期の<フジロック>に何かしらの期待や欲望を投影していたとすれば、それって、社会に対する変革の機運やヒントが生まれる場所ってことだったんですね。ポップ音楽のシーン全体の変化云々ってことだけじゃなくて。<フジ>って、あそこに24時間なり、3日なりの間、ただそこで過ごして、楽しんでいるだけで、誰かに説教されたわけでも、諭されたわけでもないのに、ちょっとした日常の生活におけるヒントを感じ取らせてくれる、しかも、その感覚を日常の生活に持ち帰ることが出来る。要はアーキテクチュアなんですよ。例えば、選挙やデモに行くことで個人が世の中を変えていくってすごく大事ですよね。と同時に、個人が企業人や市民として普段の生業の中で、自分の仕事が格差や不条理に繋がってないかと考えたり、行動することも大事だったりもするじゃないですか。いろんなが社会参加あると思うんだけど、何よりも日常的な衣食住における選択。そこには喜びと責任の両方があるってことを肌で感じるためのヒントが、<フジロック>敷地内のありとあらゆる場所には転がっているんです。でも、<フジロック>の存在が世間的に認知され、どこか当たり前なものになり、<タイコ・クラブ>みたいなフォロワー・イベントも増えてきて、あるいは、ひたすら豪華なアミューズメント・パークのような日常のガス抜きイベントが勢いを増すにつれて、そういった<フジ>独自の特性が若い世代に伝わりづらくなってきたように感じます。特にここ数年は。
今後の<フジロック>に何を求めますか? 個人としてでも、メディア人としてでも。
やっぱり<フジロック>という場所は常に批評であって欲しい。<コーチェラ>のようにポップ音楽のシーン全般に対する批評としても機能して欲しいし、ここに出演すること自体がそのバンドのメダルになるような敷居の高い存在であって欲しい。それ以上に、やっぱりいろんな新たな発見の触媒であって欲しいですね。「普段の生活のここがちょっとおかしいんじゃないか?」とか、「<フジ>の3日間で感じたことって、日常の生活でも適用できるじゃないか?」と思わせてくれるような批評的な存在というか。実際、ずっと<フジロック>というのはそういう場所だったと思う。これは決して俺だけの思い過ごしじゃないと思うんですよね。
新しい世代にもそういうものを感じて欲しいと。
う〜ん、正直そこはわかんないです。これからの<フジロック>がそうあることがいいことなのか、そうじゃないのかもよくわかりません。ただ少なくとも自分や同じ世代の連中にとっての<フジロック>はそういうものだった。ホント不思議な場所なんですよ。「なるほど、効率性や快適さを闇雲に追求する必要なんてないんだ」、「むしろちょっと不便な方が楽しいんだな」とか。半日なり、数日の間、その場所で過ごすだけで、そういうことを実感として受け取ることが出来る。そんな場所なんて、そうそうないと思うんですね。
前編でも話してもらった「自由」や「自主性」みたいなところですね。
不思議なもので、何かと便利な場所というのは、自分の中の自主性とか、自発性、創造性を知らず知らずのうちに骨抜きにしてしまうものなんです。自分が考えて、自分が選んでいるつもりでも、無意識の内に何かを選ばされていたとか、どうにもおかしなことになってしまいがちなんですよね。でも、フジのあの場所にはそれとは逆の作用がある。そうしたパフォーマティヴな批評性というのは、本当に<フジロック>ならでは、なんです。
99年 キャンプサイトにて
<フジロック>が新しい世代にとってそういう場所であり続けることは大事なことだけど、同時に、とても難しいことでもあると思います。
そうですね。俺は自分の雑誌や文筆の中でも同じようなことをやってきたつもりですけど、なかなかに難しい。やっぱりどこか説教臭くならざるをえない。でも、<フジ>にはあっさりとそれが出来た。だからこそ、<フジロック>って奇跡的なんです。ただ果たして、フジの主催者が意識的にそれを作り上げたのかどうかは、もはやわからない。当初、<グラストンベリー>に触発された日高さんには確固たる思想やヴィジョンがあったにしても、そこにいろんな時代の機運がクロスオーバーしてそうなったのか、集まった何万人というオーディエンスのリアクションを飲み込むことでそれが可能になったのか、誰もそこをきちんと指摘出来ないと思う。でも、奇跡的にそういうメディア、アーキテクチュアになっていたのが、唯一<フジロック>だけなんですよ。だからこそ、俺は<フジロック>にここまで入れあげたんだと思います。
オーディエンスが作り上げた要素はかなり大きいと思います。
<フジロック>特有のマジックって、半分以上がオーディエンスが作ったものだって言ってもいいと思います。文化って、誰かが作為的に牽引しようとしてもうまくいかないんですよ。いろんな偶然とか、時代のうねりが合わさって、勝手に出来上がってしまうものだから。生き物なんです。ここはちょっと慎重に言葉を選らばなきゃなんないんだけど、俺、フジ・ロッカーズって言葉とか、あまり好きじゃなくて。そもそもバンドのファンとかにしても、ロイヤリティ、忠誠心の高すぎる人達って、ちょっと苦手なんです。ちょっとしたドグマも生まれがちだし、その外側のカジュアルな人達に向けて敷居や壁を作ってしまう場合もある。でも、そんな親衛隊みたいな人達が存在するイベントなんて、<フジ>くらいじゃないですか?(笑)。それだけ蠱惑的な魅力があるんですよ。実際、主催者とバンドとオーディエンスが一緒に新しい何かを作っていく、成長させていく。そういうロマンティックな感覚が<フジ>には常にあった。これ、まさにコミュニティなんですね。もちろん、それってプラスとマイナスの両方があって。<フジ>の魅力に感染してない人たちからすると、「なんか、うざいな」と感じる部分もきっとなくはない。で、また厄介なのが、その魅力が説明しずらい上に、あの場所に一定期間いるだけで、感覚的にすべてわかっちゃうってことなんです(笑)。でも、そうした過剰さがいくつものケミストリーを起こして、結果として、ここ10数年の間、時代を作ってきた。それだけは間違いない。だからこそ、これからもそうあって欲しいと思っています。
photo by Mitch Ikeda
interview by Satoshi Toyomane/Shotaro Tsuda
text by Shotaro Tsuda
photo by Daiki Hayashi
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